昨日は糸里天神を含めた島原花街について語ってきたが、今日は新選組と水戸天狗党の顛末について、芹沢鴨を軸にしながら話していきたい。

もっとも、物語の始まりである文久三年八月初旬において新選組という名はまだ存在していなかった。
その頃は「壬生浪士組」と呼ばれていたわけである。

当時の壬生浪士組にはふたりの局長がいた。
ひとりはお馴染みの近藤勇であるが、もうひとりは芹沢鴨という人物が局長で、かつ筆頭局長として浪士組の元締めを担っていた。

芹沢鴨とその一派に属する新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司に関しては、基本的に残されている資料が非常に少ない。

その僅かな資料に基けば、芹沢の一般的な評判というものは非常に悪いものである。


新選組二番組の組長である永倉新八の記録によれば、芹沢鴨は常陸国真壁郡の芹沢村の生まれであるという。

芹沢家は代々の郷士であり、芹沢村の領主を兼ねていた。
彼は芹沢家の三男玄太として生を受けたのだが、二人の兄が水戸藩に出仕する事となったため、玄太が繰り上がって芹沢家の跡目を継ぐことになった。

しかし、その後玄太は多賀郡松井村の神官である下村祐の婿養子に迎えられたとされ、それ以降は下村嗣次という名で通っていたそうだ。

芹沢鴨といえば、「尽忠報国の士」と書かれた鉄扇を愛用していた事で有名だが、これは彼が水戸藩と水戸学に近い場所で育ち、尊王攘夷思想に強い影響を受けたことに起因すると言われている。

水戸藩と水戸学の歴史を紐解けば、第二代藩主である徳川光圀公にまで遡ると言われている。学者肌であった光圀公は、「大日本史」編纂のための修史事業に生涯をかけたと言われている。

各地より学者が招かれて水戸学が原型が形作られたと言われるが、もともと裾野が長かった水戸学の学域が尊王攘夷思想へと集約されたのは江戸後期から幕末にかけてのことである。

藤田東湖、戸田忠太夫、そして武田耕雲斎をして水戸の三田と呼ばれるが、彼らの思想が水戸藩士たちに多大な影響を与え、やがて一部の過激な勢力は徒党を組み、彼らは天狗党として世に知られる事となる。

物語の中でも、水戸浪士たちが引き起こした数々の事件が振り返られている。

中でも時の大老・井伊掃部頭が殺害された桜田門外の変や、英国公使ラザフォード・オールコックを襲撃した東禅寺事件は水戸浪士たちの過激さを世に知らしめ震憾させた事件として壬生浪士組の隊士にも語られている。

安政五年に起きた戊午の密勅にめぐる一連の騒動の中で、芹沢鴨こと下村嗣次は常陸国玉造で返納阻止運動に加担していたという記録が残っている。

この密勅は、時の孝明天皇が日米修好通商条約に反対する旨の密勅を水戸藩主徳川慶篤に下賜された事に端を発する。
つまり、天皇は時の幕府の対応を批判し、公武合体の実を成して攘夷を推進すべきであるというを立場を明確にされたのである。

ただし、時の関白・九条尚忠の裁可が無い状態で下賜されたものであり、更に勅書が幕府に対してでなく、その臣下である筈の水戸藩に直接手渡された事が問題の火種となった。

実際にこれに激怒した井伊掃部頭は、その後安政の大獄を強行し、尊王攘夷派や一橋派の大名・公卿・志士・学者を含めて百名以上を捕縛し死刑を含む厳しい沙汰を下したのである。

水戸藩では、一橋慶喜公をはじめ藩主・徳川慶篤が蟄居を命じらる。また、密勅に直接関わった水戸藩家老・安島帯刀は切腹を命じられた。

さらに朝廷から密勅の話を直接受けた水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門は当時病に伏していたが、召し出されるや苛烈な拷問を受け歩行が困難になるほどの重い障害を負わされた挙句に斬首された。

一方、勅書を直接受領して水戸へと運んだとされるのが吉左衛門の息子・鵜飼幸吉であった。
神道無念流の剣豪であった幸吉は父の命令を受けて当に命懸けで勅書を水戸へと運んだと言われるが、安政の大獄で捕縛された後、もっとも重い刑とされる打ち首獄門を命じられる。

小塚原刑場で晒されていた幸吉の首級台には誰の仕業か『大日本大忠臣首級』と書かれた張り紙が付けられたらしい。

安政の大獄によって水戸藩士の深い恨みを買った井伊掃部頭がその後、水戸浪士たちにより桜田門外で殺害された事は先ほども述べた。


そして、以上のような水戸藩を取り巻く様々な出来事の影響を若き日の芹沢鴨が全く受けていなかったと言ったら嘘になるだろう。

実際に彼は下村嗣次の名前で密勅返納阻止の急先鋒に立っていたのである。すなわち、彼は天狗党の中でもより過激な激派に与していたと考えられる。

また、芹沢は神道無念流の剣士として実力があったと言われており、同じく神道無念流の剣豪で安政の大獄により獄門に処せられた鵜飼幸吉と親交があったとも考えられる。

こうした事を考えても、芹沢がその後幕府の浪士組の公募に名乗り出て上洛し、壬生浪士組の筆頭局長としてその名を馳せるようになってからも、水戸学の尊王攘夷思想が心の中で息づいていたと考える方が自然だと言える。

しかし、その思想は、佐幕派に属する会津藩お預かりの立場にある者の思想としては大変に危険であった事は言うまでもない。

そして、水戸者であるが故に会津藩関係者や、壬生浪士組の内部においても常に疑念の目を向けられていた事は確かであろう。

芹沢を悪漢とするイメージはこうした中で醸成されたわけであるが、芹沢みずからもそのイメージのままに振る舞ったようである。

「輪違屋糸里」の物語の冒頭で芹沢鴨は、島原花街の角屋前にて、輪違屋の音羽太夫を無礼討ちするという狼藉を働いた。

島原一の傾城と謳われた音羽を公衆の面前で斬り捨てるという事がどれ程衝撃的な事件であったのか、それは島原花街のみならず京の町全体を震撼させる出来事であった。

京雀たちに「みぶろ」と呼ばれる恐れられていた壬生浪士組。
中でもその筆頭局長である芹沢鴨は、昼間から酒を飲み、商家に入っては押し借りの名目で金品を強奪するなど、まさに傍若無人の限りを尽くしていたのである。

しかし、芹沢鴨はその噂どおりの大悪党だったのかというと、さにあらず。

音羽太夫を斬り捨てたのは事実にしても、この話には後日談があったわけである。

すなわち、音羽太夫は長州藩士で尊王攘夷派の巨頭・久坂玄瑞の愛人だったのである。
そして、芹沢は会津藩の密命を帯びて、音羽の殺害が決行したのだという。

島原から壬生村まではそれほど遠くない場所にあり、壬生村に屯所を置いていた浪士組の様子を音羽が間者のように情報収集している可能性があったからだ。

しかも、輪違屋で音羽太夫の妹分のような存在であった糸里は、壬生浪士組の副長・土方歳三と交際していたのである。

土方が寝物語で糸里に話していた情報が、糸里から音羽に筒抜けになっていて、やがて長州藩に伝わっていたとすれば甚だ危険である事は間違いない。

そこで会津藩から密命を受けた芹沢がみずから買って出て音羽太夫殺害という汚れた仕事を実行したと、そんな顛末なのである。

芹沢のみならず、壬生浪士組(のちの新選組)の存在価値というのは会津藩の密命を帯びて彼らがやらない様な汚れた仕事の手伝いさせられるというものであった。


特に芹沢は水戸者であるというだけで、会津にしてみれば信用ならなかったわけである。
だから、ボロ雑巾のように使うだけ使って、使い終わったらきれいに始末するという訳である。

また、近藤勇率いる試衛館派(土方、沖田、原田、井上、山南、藤堂ら)にとっても芹沢は目の上のたんこぶであった。
とくに芹沢は本物の武士であり、百姓出身の近藤や土方にとってはまさに羨望の的であり、かつ妬みの対象でもあった。

八月十八日の政変においても壬生浪士組は急先鋒に立ち、長州勢力を京から締め出すことに貢献したとされる。この時、近藤ら試衛館派の隊士がすっかり怖気づいている中にあって芹沢は具足に陣羽織、烏帽子をかぶった侍大将姿で堂々と登場する。

さらに京都御所の御門を固めていた会津藩士がはじめ壬生浪士組とは気づかずに開門を拒み、敵だと勘違いして槍を向けると芹沢は笑いながら愛用の鉄扇で槍先を叩いて悠然と振る舞い、唖然とする門番をよそに堂々と門を通過したと言われる。

こうした豪胆さは近藤や土方をしても到底真似できるものではなく、戦さの段になって近藤らが怖気づいたのは自分の心根に臆病な百姓根性があるからだと信じていたという。

一方、芹沢は武士の出であるから戦さの舞台には滅法強く、禁門を護る会津の兵士に槍を向けられても泰然自若とすることが出来た。

つまり、芹沢と近藤は同じ壬生浪士組の局長でありながらも、身分の格差という越えられぬ鉄壁によって隔絶されているのだと、試衛館派の隊士は考えていたというのだ。

会津藩は試衛館派の芹沢に対する妬みの感情をうまく利用した。

だから、音羽太夫の無礼討ちや大和屋の焼き討ちといった汚い仕事は芹沢とその一派にやらせて、かたや近藤率いる試衛館派には京都守護職・松平容保みずからが食事会に招待するなど処遇に格差を付けたのである。

そして、松平容保は食事の席で近藤らに芹沢一派を斬るように命じられるのである。

八月十八日の政変による武勲によって壬生浪士組から「新選組」と名前を改めたばかりだと言うのに、新選組はこの時すでに修復しようのない亀裂が生じていた事になる。


これから先の話はまた次の機会に。

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