彼女は生まれた時から抜け殻でガランドウな存在だったがそれは彼女のせいではなかった。
彼女自身自分がいつ生まれたのか知らなかったしいつから今あるようにここにいるのかも理解出来ていなかった。
でも気がついたときには所々漆喰が剥がれ落ち古い木地がのぞいているロココ調の広間に家具や複雑なカタチをした自動演奏機械に埋もれるように置か れていたのだ。
彼女は豚の頭部に漆喰で塗られたガランドウのカラダを持つだけの存在だったがそれでも誰よりも美しい声で唄い他者の悲しみを理解する心を持ってい たのでこの家を訪れる多くの客に好かれていた。
家族は父親だけで彼はその古い格式張った家の主でもあったが誰でも受け入れ身分を問わずに相談に乗り悩みを聞いてやっていたので客足が絶えること はなかった。
元々人が絶えることがなく集められたオルゴールや自動演奏機械のおかげで賑やかだった広間は彼女の唄が加わることで更に華やかさを増していた。
天空に月が輝く良く晴れた夜には手入れの行き届いた中庭で彼女を囲んで唄を聞く事が集まった村人達の一番の楽しみになっていた。
やがて彼女の唄と存在は中央の貴族達の知るところとなり秋から次の春にかけての期間は父親につれられて特別仕立ての馬車で外国まで遠征するように なったのだ。
彼女は請われればどんな唄でも唄った。
当時高名だったあらゆる演奏家達と競演の機会を得て時代の寵児のように扱われたがそれでも慢心することは無く誰の要求であろうと応えあらゆる楽曲 を唄った。
彼女は一躍人気者となりサロンの寵児となったがそれを良く思わぬものも少なからず存在した。
それは彼女によって唄う場を奪われた歌い手やその関係者たちであり同時に異形のものを受け入れることのできない悲しい人間達だった。
彼らは彼女に恥をかかせようと現在の人間では唄いこなせないカストラート用に作られた楽曲を持ち込んだりしたがそれさえ彼女が苦もなく唄いこなし たので彼らの目論みは失敗に終わり逆に彼女の名声を高める結果に終わってしまった。
演奏を妨害したり客席から野次を飛ばしてみたりしたがたいした効果はなくむしろ顰蹙をかったのは彼らのほうだった。
彼らの多くは本来あるべき努力や持つべき誠意を持たず人間関係を利用する事で自分にとって都合の良い状態を得ようと考え行動する傾向にとらわれて いた。
それだけに彼女の有り様は本来あるものよりも更に強大に感じられ彼らの憎しみと敵意を日々増大させていた。
そもそも彼女は人でさえないのだ。
言わば便利な自動演奏機械のようなものでそんなものが自分たちの大切な仕事を奪って行くのを許すべきではないと考えるようになったのだ。
彼女を殺すのではない。
余計な機械を壊すだけだ。
新大陸で自動的に鉄道の線路の釘を打つ機械が発明され多くの黒人の仕事を奪おうとした時それと闘って機械を廃棄させた黒人のように我々は我々の権 利を守るのだ
そのすり替えられた思考は談合するたびに歪み徐々に具体的な計画となりある冬の夜それは実行された。
演奏会の帰りにたまたま父親が別件で人に会う為に彼女をその屋敷の召使いに任せたのだ。
だがその召使いは幾ばくかの金を握らされて彼らを招き入れてしまったのだ。
殺しはしない
それは酷いことだから
我々は貴女を唄えなくするだけだ
そうしないと我々が生きて行ける場所がなくなるからだ
貴女は食べなくても生きて行ける体と環境があるが我々には日々のパンが必要なのだ
惨い事だとは思うが理解してもらいたい
出来るだけ手早く済ますつもりだ
ゆるして欲しい
彼女は抗弁したかったがそれさえ許されなかった
彼女が助けを呼ばないように用意してあった口かせを閉め込まれていたからだ
彼らは用意してきた解剖刀で彼女の顎の下を切り開くと金属の口かせで押し込められ小さくなっている舌を根元から切り取り咽頭を砕いた。
それから切り開いた顎を縫い合わせると口を開く事が出来ないように金属製の固定具で下顎を固定した。
彼らは切り取った彼女の舌を切り刻むとそれを皆で食べてしまった。
彼女の舌には霊力がありそれを食すれば美声が出せると口かせを作った魔導師がそう彼らにふきこんだからだ。
でも もう彼女がそれを悲しんでいるかどうかさえ誰にもわからなかった。
舌がある事で唄って会話が出来たからでその舌を失ってはただの置物と変わらないからだ。
次の日の朝になって彼女の異変は帰って来た父親によって発見されたがもはや手の施し用はなかった。
多くの彼女の信奉者達が嘆き悲しんだがもうその時点では彼女が生きているかどうかさえわからなかったのだ。
やがて彼女は馬車に乗せられて家に帰って行った長い家路についた。
彼女が唄えなくなった事でそれまで湯水のように資金を出してくれていたパトロン達の支援が潰えたからだ。
父親は彼女のおかげで多くの人に囲まれ贅沢な暮らしが出来ていたわけだがこれからは節約して慎ましく暮らして行かねばならないだろう。
長い冬がようやく終わりを告げ解けた氷が道をぬかるませていた。
父親はあの夜彼女の元を離れた事を後悔していたがそれでも彼女を厳重に梱包した羅紗から解こうとはせず馬車の荷台に積んだままにしていた。
家を出るときにはずっと一緒に馬車に乗り歌を歌わせていたのにというのにだ。
家につくと大勢の彼女の崇拝者たちが悲報を聞いて駆けつけた。
彼女はようやく厳重な梱包から解かれいつもの場所に据えられたが会話する事も唄う事も出来ない状態では只の置物に過ぎずあらためて良く見ればそれ は奇怪で異様な存在でしかなかった。
それでも初めの半年ほどは時々様子を見に来たり見舞いにくる客もいたが一年が過ぎる頃には誰一人屋敷を訪れるものはいなくなり屋敷はだんだん荒れ 果てて行った。
それでも最初の5年程は彼女のおかげで蓄えた財産があったのでまだ暮らして行けたがそれも乏しくなりやがて借金を重ねるようになっていた。
ちょうどその頃ある友人が父親を元気づけようと手に入れたばかりの蓄音器という機械を見せに屋敷を訪れた。
その機械でよく彼女が歌っていた楽曲を友人に訊かせてもらううちに父親は彼に懇願しその蓄音器を譲ってもらっていた。
それをもう誰も見向きをすることもなく居間の隅で埃をかぶっていた彼女に組み込んだのだ。
ガランドウのカラダを切り開き蓄音器の機械を中に組み込み大きなラッパを頭に取り付けた。
そうやってレコードをかけてみるとまるで彼女が唄っていた幸福なあの日のような気分に浸れるのだった。
それではじめて父親は彼女の事を深く愛していた事を理解したが同時にそうやって音を出す事しかできない彼女の存在がたまらなく辛くも感じるのだっ た。
それでも父親は暫くのあいだ彼女と暮らしていたがある日忽然と姿を消してしまった。
付き合いは広かったが特に親しくしていた人間もいなかったので行方の探し用も無く親戚縁者などというものも現れなかった。
暫くして事件の可能性もあるとして警察が入ったことによってようやく彼女と父親の実像というものがつまびらかにされたのだ。
父親は鍊金術師の家系にあったがそれほどの才能はなく先人達の研究成果を切り売りするようにしながら収入を得ていた事。
あるとき先代からの顧客からの依頼で降霊を頼まれシャーマンを雇って研究するうち偶然降霊した霊を入れる器として彼女を使った事。
その器にされたものが彼女で 元は先代が当時の中国の貴人からの依頼で不死薬の研究中に投薬実験の副産物として生まれた舌と咽頭だけが不死となっ た豚の頭部を切り離したものでありそれに霊を縛るために高僧の骨から作った漆喰で塗り固めた身体と組み合わせたものである。
それは死を認識出来ない存在であり故に不死である為それは死者にとって自身を認知されない牢獄のようなものだった。
だが降霊された霊はその器を嫌わず共生しやがて自身の身体としてそれに合わせた新しい人格と記憶を紡ぎあげて行ったのだ。
元がどういう霊だったのかはもはや知る由もないし未だに彼女の中に存在するかどうかさえ定かではなかった。
やがて屋敷は借財者達によって競売にかけられ中にあった雑多な家具や自動演奏機械や先祖から受けついできた膨大な鍊金術の資料や薬なども皆二束三 文で売り払われた。
彼女はもともと彼女の事も父親の事も良く知っていた骨董商に引き取られたようだがその後を知るものはいない。
人々は時々彼女を思い出しそのうちの誰かがPo. Noc(月夜)と名付けた彼女の小さな墓を作った。
それは共同墓地の隅に作られた小さななにも埋まっていない墓だったが人々は彼女を思い出すとそこでもうすっかり遠くなってしまった日々に思いを馳 せるのだった。