ピッチングを教えることもそうだが、試合での投手起用を監督に進言する。
投手陣をあずかる役割は重要。
【1980年の浦田直治】
西武コーチ:2年目(44歳)、背番号75
一軍バッテリーコーチ
【1980年当時の記事写真とコメント】
投手の調子を見抜き、ローテーションを決めるにはうってつけのコーチ。
人一倍情熱的だ。
1980年シーズン終了後に兼任を解除しスカウト専任になった。
かねてから浦田自身スカウトに専任したい意向を持ち続けており、その事は根本監督へ伝えていた。
新投手コーチ(八木沢壮六)が決まり、ようやくスカウト専任の希望が叶った。
浦田はクラウンライター時代の1978年から「スカウト兼一軍投手コーチ」を任されていたが、西鉄時代からの兼任も含めるとスカウトとして10年以上の経験があり、当時の西武スカウト陣の中ではその経験と実績は飛び抜けた存在であった。
【浦田直治 関連記事】
西武ライオンズタイムマシーン(第230回):1979年 浦田直治
その後のスカウトとしての浦田の活躍ぶりについては、新人選手獲得の裏話など、面白い記事(Sportiva、文・高橋安幸)がありますので下記へリンクを貼っておきます。
・一杯のカレーが運命の始まり。群馬の中学生は「根本陸夫の右腕」になった。
・無名でも実力ある選手を獲りにいく。「根本陸夫の右腕」が貫いた信念。
・江川卓の指名と田淵×真弓トレードの真実。「根本陸夫の右腕」が激白。
・秋山、伊東、工藤を獲得したドラフト戦略は「裏工作」と揶揄された。
・「西武も桑田真澄を狙っていた」根本陸夫の右腕が語るKKドラフトの真実。
根本がまだ西武に在籍していた時は、根本の右腕的存在で尽力し、根本が西武を去った後は、根本イズムを浦田が継承し続け、徹底したチーム事情の把握、それに対応した戦力補強を長年継続し続けた結果、浦田が2005年に勇退するまで西武は24年連続Aクラス入りを維持し続けました。
1980年代から2000年代前半にかけての西武ライオンズの常勝軍団、安定したチーム作りを支え続けた一人でした。