西武ライオンズタイムマシーン(第307回):1979年 田淵幸一 Part.4 | はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

1979年 田淵幸一 Part.3」からのつづきです。

 

【1979年の田淵幸一】

西武在籍:1年目(33歳)、※阪神から移籍、背番号22
成績:107試合、382打数100安打、打率.262、27本塁打、69打点、0盗塁

 

6月下旬以降、本来の捕手に戻り出場を続けていた田淵だったが、重労働のポジションである上、プロ入り後から毎年のように故障してきたベテランの身体にはむしろつらい状況だった。
次第に、打撃にも悪影響を及ぼすようになり、極度のスランプに陥りついには田淵が「引退」も口にし始めるほど深刻な状況に陥った。
復調を期待し田淵をずっと我慢をして先発起用してきた根本監督だったが、あまりの打撃不振についに田淵を外す事を決断。
普通であれば二軍落ち、もしくは田淵のこれまでの実績を考えて代打での起用も考えるところだが、根本監督は田淵を二軍へ落とす事もなく、代打でも起用することもなかった。
根本監督はそれを頑なに守り8月14日~9月2日までの13試合で田淵が出場したのは代打でのわずか1打席だけだった。
根本監督がこの期間に選択したのは、この真夏の時期にベテランの田淵を休ませることではなく徹底的に鍛え直す事だった。
根本監督の考えは田淵を早急に立ち直らせなければこのまま終わってしまうと考え、足腰をもう一度強化させる事を始めた。
二軍に落として走らせるよりも、一軍に帯同させたまま監督が自らノックバットを握って外野ノックをした方が、田淵も手抜きせずやると考えた。
試合前のグラウンドでナインから一人はなれて外野ノックを受け右へ左へと走り続ける田淵と根本監督とのマンツーマンの特訓は2週間以上続けられた。
そして迎えた9月2日対阪急とのダブルヘッダー第2試合では、8月12日以来の先発出場にもかかわらずいきなり4番・指名打者で根本監督は田淵を起用した。
すると田淵は特訓の成果を見せつけ、2打席連続本塁打に5打点と復活の狼煙を上げた。

 

【1979年名場面】

1979年9月2日(日)ダブルヘッダー第2試合 ○西武6-4阪急●
田淵、地方のファンの度肝を抜いたバックスクリーン直撃の超特大ホームランで4連勝

ミスター・レオ田淵幸一選手が指名打者としての本領を発揮。
17号、18号の連続アーチでライオンズを4連勝に導いた。
特に初回1死からの3ランはバックスクリーン直撃の超特大。
その千両役者ぶりに「さすが」の声しきり。
吠える獅子の姿を見た富山のファンは、その魅力にすっかりとりことなった。
(県営富山球場:観衆2万5千人)

 

次回「1979年 田淵幸一 Part.5」へつづきます。

 

↓↓あわせてこちらもお楽しみください↓↓

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード大図鑑(第3回):1979年 田淵幸一