西武ライオンズタイムマシーン(第51回):1979年 森繁和 Part.1 | はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

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★2019年4月26日(金)に掲載したブログのアップデート版です★

 

(1979年西武ファンブックより)
昨年度社会人野球ナンバーワン投手。
ドラフト1位で入団。
昭和52年は日本選手権で優勝。
昭和53年は世界選手権で4勝0敗の成績が光る。
駒大-住友金属を通してエース。
早くから速球投手としての素質を見こまれていた。
即戦力として期待され、新人王の呼び声が高い。
大リーグ相手のオープン戦でも好投「彼なら大リーグでも通用する」と、絶賛されたほどで、その実力をいかんなく発揮した。
初めてのゲームでボールを受けた野村も、あとは腰を使って投げるようにするだけ、と手ばなしの喜びよう。
早くもナインの信頼を得た。
森自身も大リーグ相手だっただけに、何も考えずに投げたのがよかった、といっているが、気力の勝利といえよう。

 

【1979年の森繁和】
西武在籍:1年目(25歳) ※新人=住友金属からドラフト1位入団、背番号11

投手成績:43試合 5勝 16敗 7セーブ、投球イニング203回1/3、自責点102、防御率4.52

 

1976年ドラフト会議でロッテから1位指名を受けたが、入団を断り住友金属へ入社。
1977年社会人野球の日本選手権大会で優勝し、最高殊勲選手賞を受賞。
1977年、1978年とアマチュア野球の日本代表にも選出された。
1978年ドラフト会議で西武、中日、ヤクルト、日本ハムの4球団から1位指名され抽選の末、西武が交渉権を獲得し、そのまま入団した。

プロ入り1年目の1979年は、即戦力として期待されての入団だった為、新人ながら開幕から先発ローテーション入りした。
開幕2戦目の4月9日対近鉄前期2回戦(日生球場)で、プロ入り初登板。

しかし3回2/3を被8安打5失点で敗戦投手になった。
4月22日対ロッテ前期2回戦(ダブルヘッダー第1試合、川崎球場)では、先発で登板し好投も7回裏にレオンに先制ソロ本塁打を打たれ0-1で敗戦。
森は8回を被3安打1失点でプロ入り初完投を果たすも敗戦投手になり早くも4敗目を喫した。
5月5日の時点で0勝6敗となかなか勝ち星を得られずにいたが、迎えた5月9日対南海前期3回戦(大阪球場)で、9回を3失点に抑え完投でプロ入り初勝利をあげた。
しかし、5月13日対阪急戦で先発し7敗目を喫するとリリーフに配置転換された。
早速、5月16日対日本ハム前期9回戦(西武球場)で、7回表からリリーフ登板し2失点しながらもプロ入り初セーブをあげた。
5月18日対近鉄戦で2セーブ目をあげたが、5月22日対阪急戦でリリーフに失敗し敗戦投手になると5月24日には再び先発に戻った。
先発再転向の5月24日対阪急戦は、5回途中自責点4で降板。(勝敗付かず)
すると翌日の移動日を挟んだ後の5月26日対南海戦でも森が2試合連続となる先発投手として登板し5回途中自責点2に抑えた。(勝敗付かず)
6月17日対南海戦では、先発した松沼博久の後を継いで5回から救援登板。試合終了まで投げ抜きようやく2勝目をあげた。
その後は7月~9月に毎月1勝ずつ積み重ね、最終的に5勝をあげた。
一方で、チームは最下位に沈んだこともあり、負け数は勝ち星の約3倍の16敗を喫し大きく負け越した。
防御率は、リーグで規定投球回数に達した25人中20位の4.52。
失点120、自責点102はいずれもリーグワーストの数字だった。
プロ1年目は、数字上ではプロの洗礼を受ける成績に終わったが、シーズン通して先発、救援問わず投げ抜き多くの経験を積んだ。

 

【1979年当時の野球カード】

山勝1979年 No.6

※サインは、ご本人から直接書いていただきました。

 

山勝1979年 No.6(裏面)

 

山勝1979年 No.なし

 

山勝1979年 No.なし(裏面)

 

 

次回「1979年 森繁和 Part.2」へつづきます。

 

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