「西武ライオンズにとって「9」の付く年は?」シリーズの第4回目は、1999年編です。
ちょっとその前に、皆さんも覚えていますか?
1999年7月に恐怖の大王やら何かが降りてきて、人類が滅亡するかもしれないというあの大予言。
私は子供の頃から少し予言に怯えていて、何度となく1999年7月まであと何年、あと何ヶ月かと逆算していたことか。
結局、何も起こらずで良かったのですが、本当にあれは何だったのでしょうね。
さて、ここから本題に。
まず、1999年最初の大きなニュースは西武ドームに屋根が被さり完成した事でした。
球団発行カード(裏面)
完全ドーム化によって西武球場時代に名物だった打ち上げ花火が無くなってしまった事が残念でした。
そして1999年の話題と言えば「松坂大輔」フィーバーの一年でした。
BBM2004年西武ライオンズ No.83
前年の甲子園を湧かせた平成の怪物右腕は、プロに入ってもその実力を如何なく発揮し、高卒新人とは思えぬ大活躍でした。
その活躍ぶりで野球界のみならず、世の中の話題も連日「松坂大輔」で賑わいました。
成績面や活躍度は別の機会に特集するとして、今回は1999年に起きた松坂フィーバーをごくごく一部ですが、当時の記事などから抜粋したので振り返ってみたいと思います。
【「リベンジ」という言葉を世に広めたのは松坂?】
新聞スクラップより
巨人とのオープン戦で打ち込まれた際や、開幕直後のロッテ戦で相手の黒木投手とのエース対決に敗戦した際の試合後に「やられたらやり返す」という意味でクローズアップされました。
そして「リベンジ」という言葉は、この年の流行大賞に選ばれました。
現在は普通に耳にする機会がありますが、世間に浸透させたのは松坂の発言がきっかけだったと言っても過言では無いかと思います。
オリックス・イチローとの初対決で3三振を奪い「自信から確信に変わりました」というあのセリフも格好良かったですね。
【松坂フィーバーの凄さを象徴した前代未聞のテレビジャック!】
新聞スクラップ記事より(1999年4月28日付け日刊スポーツ)
詳細は新聞記事を読んでいただくとして、この日夕方、家に居た私はどこかのチャンネルで松坂登板のニュースがやっていないかと思いテレビを付けたところ偶然このシーンに遭遇。
局が異なるのに放映されている試合映像が全く同じだったので不思議に思っていたのですが、西武球団の機転とテレビ埼玉(現テレ玉)の協力があって実現していたようです。
松坂大輔が投げる試合を観たいと思っていたファンへの、究極のファンサービスであったと思います。
今後これだけの影響力を与えるプロ野球選手は恐らく出てこないと思いますし、テレビ各局の枠を超えて何かを実現させる事が難しくなった時代ですから、この瞬間を目の当たりにできた事はラッキーでした。
【雑誌の表紙やインタビューにも引っ張りだこ】
プロ野球の開幕前に発売された「ザ・テレビジョン」増刊号の表紙に登場。
本来「プロ野球の顔」とも言える選手が表紙を飾るのが通常ですが、まだデビューすらしていない新人選手が、イチローや松井秀喜といった当時のスーパースター選手を差し置いての異例とも言える抜擢でした。
他にも野球専門誌やスポーツ専門誌のみならず、ファッション誌、小学生向け誌など幅広いジャンルの雑誌の表紙に登場。
表紙のみならず、女性ファンをターゲットにしたインタビュー記事の特集が組まれるなど、その数は把握し切れないほどの数だったと思われます。
【オフには大型のCM契約も】
1999年12月13日に全日空、ミズノ、キリン、日立、カシオの5社と2000年1月1日から1年間の広告出演契約を結びました。その契約金は4億円に上ったと言われています。
カシオ・G-SHOCKと日立・Priusの店頭パンフレット
キリンビバレッジのスポーツ飲料「SPEED」に付属のシール
「SPEED」は、何と松坂大輔との共同開発商品との事でした。
ペットボトルに必ずこのシールが貼り付いていて、私もそのシール欲しさに商品を複数購入。
そのまま剥がして携帯電話などの自身の所有物に貼り直す。
私の周囲でも、同じ事をしていた人が何人かいました(笑)。
今回の資料のほとんどは松坂ファンだった妻が今まで所有していたもの。
捨てずに持っていた事で今回資料として活用できました。ファインプレーです。
【1999年順位:2位】
監督:東尾修
135試合 75勝 59敗 1分 勝率.560