サズと塩らっきょうがあればこの世は天国だ。
この世は憎しみの渦巻く闇で、かろうじて体裁を保っているその下では、あらゆる種類の悪が出番を待ち構えている。俺にとってサズは、そいつの出鼻をくじく、Tリンパ球みたいなものなんだ。
いやこのたとえはあまりよくない。そんな攻撃性を持ったものでもなく、波動によって悪の欲望を無力化する、といえばよいのか。日増しに悪の顕在化が進むこの国だが、サズの母国でも情勢は混沌としている。さまざまな正義がぶつかり合う中で、自分の拠って立つ場はどこなのか。途方にくれることもある。
われわれはみな歴史の申し子で、加害と被害の錯綜した時間を生きている。加害者の息子たちと、被害者の娘たちが連帯するために何が必要なのだろう。相手の身になって考える、感じることはなぜ人間にはできないのだろうか。当事者でないものが、自分の属する集団の過去のくびきによって、真実との出会いを妨げられてよいのだろうか。その意味で、俺はナショナリズムという思想そのものに深い疑問を持っている。それが、おまえは人間である前に国家の一員であることを優先せよ、民族の一員であることを優先せよ、と要求するものである限り。過去には、民族としてではなく、個人として対峙すべきである。
人間同士の憎悪に歯止めをかける力が音楽にあるのだろうか。音楽による共感が、憎悪の快感を上回る強さと深さを持つことができるのか。だが、迷ってる暇はない。
敵を踊らせること。敵とともに踊ること。戦争への誘惑を断ち切るために、言語と概念を捨てること。そもそも、敵味方など、言語の偏った使用がうみ出す妄想で、音楽の世界に本来敵も味方もありはしない。かつて喜名昌吉は言った。わたしの弾くサンシンで、デモ隊を襲う機動隊員も踊っていた、とな。
この世界のあらゆる集団を結びつけるのは言語と金であり、その筆頭は国家とマスコミだ。こいつらの時代はおわりつつある。言語にからめとられない力を持った音楽を共通語としたサズ共和国ネットワークをが力を持つようになるだろう。
実際、サズはすばらしい。おれは正直サズさえあればほかの楽器も音楽も要らない。それほどこの楽器はすばらしく、可能性に富んでいる。かつてサズ一本でいくさをやめさせることができた吟遊詩人の記憶がこの楽器には詰まっているのであり、サズを弾くものにはこのおれにさえ、いにしえの記憶の恩恵が降り注ぐのだから。
トルコは、トルクメンとクルドとザザと、アルメニアと、ギリシャとその他多くの複合体だ。日本もまた朝鮮とアイヌと、西域民族と、その他多くの複合体だ。純血などどこにもありはしない。美しい音楽は文化的混血(ときには混血そのものの)証である。サズがこのことを証明している。その多様性と豊かさは、メソポタミアにまでさかのぼる時間と、トゥバからマケドニアまで広がる空間の織り成す人間賛歌である。
ナショナリズムとは、たとえて言えばサズを前にして、その起源がどこに由来するかを主張しあった挙句、ネックと本体と表面版と弦と糸巻きと駒とフレットをばらばらに分解し、これじゃ音楽が聞こえないぞ、と暗い顔で持ち帰るようなものだ。