真夜中の変化球 | サズ奏者 FUJIのブログ

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そのとおりだ、肩がいたいのは、つまるところ、1984年を読みすぎたせいなのだ。

俺は、この世の滅亡とやらを想像してすぐに、その滑稽さに苦笑した。たしか2012年12月22日で世界はおわるはずっだったよな。あれほどこの世の終わりを言い募ったあの人々は今どこに隠れているのか。と考えてから俺はその考えの浅はかさにに気づいた。


終わってるのさすでに。いや正確には、まことの終わりにいたる長い長い道程の始まりを示す、時間のスイッチが入った。予告どおり、音もなく誰に気づかれることもなく、スイッチは押されたのだ。


 ほとんど毎日のように人が電車に飛び込んで行き、そのことにさしたる感傷も痛みを覚えることもなく、生きているわたし、あなた。血なまぐさい線路の戦場をちらりとかすめることもなく、目先の欲望に反射するだけの脳。

 死に行く人の絶望はおろかだろうか。つかの間のちまちました欲望で満たす作法になれた生者が賢く、死者はおろかだなどといえるのだろうか。かなたの鎮座する神の公平な目で見れば、狂いもせずに生きているわれわれの精神こそが犯罪的に腐っているのではないか。


 絶望もできず、いまだに金や権力にしがみついて、うまくいかないことは何でも敵のせいにする。どこまでいっても希望には至らず、責められては一大事とばかり、とげや牙をむきだしに他人を攻撃する。それも安心して攻められるほどよい強さの敵を冷静に選んだうえで。


 現実とは何だろう。自分の体験した範囲でしかなにごとかを語れないならば、世界の大半は理解できず、無知の原野に取り残されるだけだ。


 俺は夢想する。2018年の東京オリンピックを襲う、地震と津波と原発事故を。江戸幕府以来400年以上にわたってわれわれを支配し呪縛してきた東京の滅亡を。。だがその滅びは、きたるべき大地震を待つまでもなく、すでに始まってるように思う。やむことのない低線量被爆と、そのことがもたらす心理的な圧迫感によって、命が不自然に弱体化していくとすれば、弱った人間はあらゆる分野で他をリードできないからだ。