「十月 宝生月並能」の感想 | 能楽師 辰巳満次郎様 ファンブログ

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いや~、アップが遅くなりました。長文です…。 m(;_ _)m

 

このところ水道橋通いが続いています。だって観たいモノばっかり続いたんだも~ん。
今は自分の稽古もさることながら、一番でも多く宝生の能を観たい、そういう時期なのよ♪ということで、十月度の月並能を観に行ってまいりました。
で、今月、継承能と月並と脇正面が続いたのですが、正面から見えないイロイロが見える分かえって冷静にお能を鑑賞できるのかもしれないなぁ、と脇正面からの鑑賞もなかなか捨て難いと思いました。
(しかし、感想アップが大幅に遅れたので記憶がちょっくら風化気味?)
狂言は今月は野村(万作)ファミリーのようです。ここのファミリーの狂言はちょっと都会的。感想は略します。

 

 

まずは「松虫」から。笛がすごく良かったです。なんとも物淋しい音色で、舞台が瞬時に秋草の生い茂る阿部野の原に変わりました。そこにワキに続いて、シテとツレ登場。
友人が「今日の松虫はイケメン揃い、って小書付きだね o(^-^)o」というのも納得のツレの人選です。曲趣を考慮したキャスティングか、なんて考えると…。○△□?!
ま、おちゃらけはさておき、このシテとツレの4人での同吟がすごく合っていて引き込まれます。ツレが声を高めに張って謡った後にシテとの同吟があると、どうもギャップが大きくて違和感が拭いきれない、という思い最近を結構味わっていたのですが、この松虫は良かったです。
シテの水上輝和師はすごく穏和で優しそうな方で、その個性を反映してか、♂♂の世界でも、むしろ純粋に友を慕う、という純情さを強く感じました。
これで「鉄輪」とシテが逆だったら…、う~ん、う~ん、なかなか♂♂だったかもしれませんが…。
ツレ3人の内先頭2人は全く同じ装束(長袴)、3人目は小紋の柄だけがちょっと前2人と違います。下着の衿がツレは皆鮮やかなグリーンです。これって若い男性って事だからなのかしら? 前ジテは黒い笠を被った定番の姿(芦刈なんかと同じ)です。後ジテは黒頭に妖士(アヤカシ)という亡霊の定番姿、舞は中ノ舞ですが太鼓無し、男性が主人公なのでペースは早めで、きびきびした印象です。
秋の夜長、いっぱいに響く虫の音の中、阿倍野の原をさ迷う亡霊…、暗く重苦しいテーマなのに、そんなに重たくならなかったのはシテの個性に因るものなんでしょう。
余談ですが、この曲を題材にしたのが地唄「虫の音」です。題材にしただけでは本行物とは言わないようですが。(合ってますかしら?)
この曲は、お能では中ノ舞が入るところを、手事(唄なしの演奏だけ)で「チンチロリン」とちょうど虫の声のように奏でる箇所があるのですが、吉村流ではそこの振りが、耳を澄ませて虫の音を聞きながら亡き友を追想しているうちに、次第次第に浮かれてきて(まず扇だけが動き)舞う、ようになっています。
また、ワタシは師匠から聞いただけなのですが、別に赤姫の二人立ちという演出があって、松虫姫と鈴虫姫の姉妹が落城跡で虫の音に戯れ舞うという趣向らしいです。ロマンチックでステキだと思うのですが、花道がないと面白味がないとのことで、舞台での実現のチャンスは無い、かもしれません。

 

 

「井筒」は、高校生である程度真面目に古典を勉強したことのある人ならば、必ず耳にしているチョ~有名なお話。そしてあの、井筒(井戸)を覗き込む場面…、この一瞬にこの能の全てが集約されていると言っても過言ではないお能です。
プログラムの表紙の写真もこのシーン、そして写真のシテは今日のシテと同じ、三川泉師です。ワキは宝生閑師です。人間国宝どうしの舞台、早々に正面席が売り切れるのもむべなるかな、です。
正先に置かれた井筒の作り物にはススキが添えてあり、秋の情趣を表現しているのですが、残念ながら今年も造花(?)でした。(覗き込んだ時に装束とこすれてガサガサと音がした。) 今の季節ぐらい、本物のススキを使って欲しかったな~。
前ジテは唐織を着附に着た里女、閼伽桶を携えての登場です。次第を謡ってからサシに入ったところで、まさかの絶句。緊張が走りました。しかしこれが逆に功を奏し、これ以降はすべてが引き締まった素晴らしい舞台になりました。シテがご高齢ということもありますが、どんな舞台も一期一会なのだ、ということを強く感じました。
つけている面は「増」かしら? とても上品で可憐で美しく、井筒の女ってきっと可愛らしい人だったんだろうな~、と彷彿とさせます。
後半は本当に幽玄の世界。引き込まれて時々トリップする意識…。いかんいかん。
「井筒」も笛が素晴らしく、何ともしっとりとした秋の気配が忍び寄る感じが…。
昨年だったか新橋演舞場での「囃子の会」で梅若六郎師が「井筒」をなさった時には、舞台いっぱいにススキなど秋草を配し、真っ暗なホリゾントには月が浮かんでいました。また数年前の東京大薪能で先代のご宗家がお台場にて「井筒」をなさった時には、夜明かりに秋風が長絹を揺らしていました。そういう舞台効果の全くない普通の能舞台ですが、この笛だけでそれらを凌駕するぐらいの雰囲気を醸し出しています。
そして、感極まったように井戸に駆け寄り、じっと水面に写る己が姿を見つめ「女とも見えず、男なりけり、業平の面影」と…。そして放心したかのように平臥…。唯一この一瞬だけに押さえきれぬ感情が溢れたかの如く、あとはまた静かに静かに終わりました。
こういうお能の時ぐらい、余韻を残して拍手せずに終わって欲しい…。

 

 

ところが、静かなシテの留拍子が終わったか終わらないかのうちに、ワタシの席の一列後ろのジイサン達(本当はジジイ共と叫びたい)のひとりが、大きな声で(自分がどれだけ大きな声を出しているのかきっと自覚がないと思うんですが)いきなり「あ゙~、終わった終わった、長かったな~」って言ったのよ! 脇正面の橋掛リに近い位置にいて、シテがすぐそばにいるのに! (思わず振り返って睨んじゃったけど、睨まれていることにも気付かず帰り支度をしていた…。)
謡を勉強しているらしいジイサン達ですが、どうもお能鑑賞には興味が薄いらしく、起きている時にはけっこう大きな声で話すくせに、静かになったな~と思うと寝ている方々…。楽しみ方は人それぞれですが、せめて全員が舞台からいなくなるまでは、黙っていて欲しかったです。

 

 

 

で、迷惑ジイサン達はここでお帰りになりましたので「鉄輪」をゆっくり楽しむことができました。
しかし、アレレ、正面席もずいぶん空席になってる…。「井筒」で帰っちゃった人がイッパイ…。まあ、ご高齢の鑑賞者が多いので、しょうがないとは言え、これはさびしいですよ。
そして始まりました(多分)ドロドロ?の「鉄輪」が…。
まず、野村万作師の貴船神社の社人が登場します。上衣が新しいのかパリパリしていて皺ひとつなく、とっても都会的でスタイリッシュな社人です。
ここにシテ、登場。黒の塗笠に唐織壷折姿です。糟糠の妻なので、ずいぶん地味な唐織(薄茶の縦縞?)です。それで、唐織の下には縫箔(濃い納戸色に金の立涌に何かの刺繍が入ってる)を腰巻にして着ているので、バランスの良い渡邊荀之助師をしても、ちょっと着グルミ状態です。この唐織壷折姿になると、下ニ居ができなくて中腰状態で謡ったりすることになり、シテにはかなりつらいんだそうです。
橋掛リを行くとき一ノ松で止まって貴船神社までの景色を見回すのですが、これがかなりコワイ…。もう思いつめている女になりきってます。ちょっとゾっとして期待感が一層高まりました。
舞台に登場して、狂言方から貴船明神のお告げを聞き、瞬時に「いうより早く色変わり」と誰にもハッキリとわかる鬼女への変化…。う~ん、荀之助師は役者です~。
そして後半になるのですが、ワキの元夫がまず出てきて夢見が悪いからちょっと見てもらおう、と陰陽師の安倍清明を訪ねてみてもらうのですが、ここが実にアッサリしていました。
6月に大阪で拝見したときはここのやり取りがもうちょっと具体的で、何とかする為にはこれこれをいつまでに用意せよ、と清明が元夫に指示していたと思いましたし、清明も最初はムリだねって辞退をしようとしたと思ったし、元夫にももっといっぱいセリフがあって、なんだかぐずぐず言っていてその分元妻が哀れと思えるような展開がありました。
ところが、今回はイキナリ、ハイわかりましたおまかせを、って感じで清明が形代を準備して結界を張りだしているんだもん、ちょっとそれじゃあ、元妻だけが悪者みたいじゃん、って展開です。ワキも流派が違うとこんなに違うんでしょうか?
さて、祈り出されて後ジテが登場。用意された形代(後妻の髪と元夫の烏帽子)が後ジテには一緒に寝ている後妻と元夫に見えるのです。しかし「あるときは恋しく」未だに思う元妻は逡巡するのですが、やはり理不尽に捨てられた恨みは消しがたく、「いでいで命をとらん」と、まずは後妻に向かいます。
「髪を手にからまいて打つや宇津の…」と、形代の髪を手にからめとり打ち据えます。
さらに余談ですが、地唄の本行物として、この「鉄輪」の後ジテの部分は舞になっています。
お能の歌詞は「いでいで命をとらん」ですが、地唄はもうちょっとソフトに「いでいで怨みをなさん」となっています。しかし、舞となるとかなりちょっとナマナマしいです。
吉村流ではこの形代の髪は使わず、あくまで振りだけでここのシーンを再現します。(お能と似た作り物と髪を小道具に使う流派もあります。) 
「髪を手にからまいて」では左手で女の髪を一重二重に巻き取って掴み、女が逃げようとするところを一度引き戻してから、「打つや宇津の」で、錫杖に見立てた扇で左手の15センチほど下(そういう口伝なんです、つまり女の額の辺りか?)を打ち据えて、足拍子1回、そのとき女の苦しむ顔を見ないように顔を背けるの~。
これをもう一回繰り返して、怨みを晴らしたら女の髪を手から離すんだけど、ここにも口伝があって「抜けた女の髪の毛が手に残っているので、それを穢なそうに手から落とすように小指から手を開く」んです。でもそうしながらも「わが身が浅ましや」と嘆きつつ…。
これに比べたら、お能はソフトです~。でもその分シテがアドレナリン出さないとイケマセン~。
さて、次に元夫を…と向かうと、安倍清明(ワキは何にもせずに笛座で坐って見てるだけ)の仕掛けた「三十番神ましまして魍魎鬼神の汚らわしや」と元妻を責め立てます。あまりの理不尽さに元妻は憤りますが、神には勝てず、力尽きて「時節を待つべし」といったん退散します。そして悲哀極まりない「姿は目に見えぬ鬼とぞなりにける」のです。
シテの個性でずいぶん印象が変わると「松虫」でも書きましたが、ワタシの受けた渡邊荀之助師の印象は「ねっとり」した怨みだな~、でした。ずっと「ねっとり」した感じだと、最後の「目に見えぬ鬼」となる哀れさがちょっと減るような気がしました。
あと、ワキは安倍清明なんだから、最後まで気を抜かずに術が破られないようにしていて欲しかったんだけど、術をかけたら後はおしまい&くたびれたから休憩って感じに見えてしまい、ちょっとがっかり…。
しかし、笛も囃子も素晴らしく、この濃い三番のお能を締めくくるに十分な濃さの渡邊荀之助ワールドをたっぷり味わって満足です。そしてまたしても友人と、濃ゆい一日をサッパリとビールでお清めいたしました。

 

 

 

ふぅ~、次は五雲会感想です~。