
ふっふっふ。
インタビューして参りましたわよ、辰巳満次郎様

鋭意努力して編集中でゴザイマスので、期待して待ってて下さいな。
さて、やっと9月の「橋弁慶」の感想をアップできましたが、
次の感想は、企画公演「時の花」の中でも目玉公演だった、
「乱 和合」についてお届けしようと思いますが…。
その前に!
辰巳美也子様


第2弾はなんと!
今回の「時の花」の参考になったであろう
74年前の「乱 和合」の、貴重なエピソード
なのでゴザイマス。
実はもっと早くご紹介できたはずなんですけど、
まり子がグズグズしていたので、ここまで引っ張ってしまいました。
申し訳ない限りです…

さあ、それではお楽しみください!
つい先日、9月27日(和久)荘太郎さんが「乱 和合」を首尾よく勤められました。
東京では30年ぶりだそうですね。関西では如何でしょうか?
「観世王国」の大阪で、そんな稀曲が出るはずがないと、大方の皆様はお思いかと存じます。
それが!
あったのでございますよ。
74年前に!
誰あろう満次郎の祖父(辰巳)孝一郎と父(辰巳)孝が、
昭和15年5月19日、
(空襲で焼けた)大阪能楽殿で勤めたのです。
この昭和15年は皇紀2600年(神武天皇の御即位を元年とし西暦よりも660年多い)「紀元は2600年」と歌われ、全国で様々なイベントが催されました。その記念能だったのでしょう。
どちらが父か兄か、何も書いてないので私には判りませんので、満次郎に聞いてみましょう。

(5秒毎のスライドショーになっております。)
この時の記録ノートがあります。
「記念扇」のお届け先を記してあるのですが、その数は莫大なものでした。
父は社交家と申しましょうか、時の華族、財閥の方々に可愛がっていただき、後援をしていただきました。
戦前の能楽界は、立派なパトロンのお蔭で栄えたのでしょう。
今は出演の楽師一人ひとりがチケットを捌き、走り回っています。
父の時代には装束つけの専門家(大阪では佐々木萬吉さんという方)がおられて、父はつけませんでした。
現在の楽屋の方々は、いろんな仕事で大変ですね。
この和合は、
おそらく私が最後の生き証人でしょう。
二人は会が近づくと、毎日のように能楽殿で、合わせ稽古をしておりました。何もわからない10歳の私を見所に座らせ、
美也子、おおてるか(合ってるか)
おおてないか見といてね。
と言われ、重大なお役を勤めさせれました。
満次郎にこの話をしましたら、
そんなもん、合うはずがないよ。
あんな難しいもの、
誰がしても完全には合えへんよ。
と笑っておりました。
そんなもんかいな~。
難しおすねんな~。
和久ちゃんはどないやったんかな~。
ともあれ、和久ちゃん

「大阪のお母さん」からお祝いの言葉を贈りますね。

いかがでございましたか?
小っちゃな美也子チャンが一所懸命に、おおてるかおおてないか、
見ている姿が目に浮かぶようですね~。
さて、今度はまり子の番でゴザイマス。
既に1ヶ月近く前になっちゃってて、だいじょぶなんかいな~。
それでは、チャオ~


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