4月4日にソウルにて、辰巳満次郎様

シアワセもん

飯塚 恵理人さん
でございます。
Facebook上に、当夜の熱い感想

まり子なんかが到底及ぶべくもない素晴らしい文章で綴られた感想は、
Facebookだけで共有するのはモッタイナイ…、と思い、
こちらに転載させていただきました。
どうぞ、ご堪能下さいませ。
(あ゙~、まり子も観たかった…・記録映像とか無いのカナ~。)
昨日の満次郎先生のソウル公演、名古屋宝生会では拝見できない満次郎先生の鍛えられた「役者」としての上品な芸が拝見できてすごく面白かった。
余韻で地下鉄乗り間違え、春川行終電に乗り遅れてネットカフェで夜を明かして始発で翰林大学の宿舎に戻り、午前中から日本学研究所での研修復帰という過密スケジュールになったが。
能が「世界遺産」ならば世界で観られなければ意味がないわけで、海外のオーケストラが日本公演頻繁にするのだから、宝生会がソウル宝生会を組織して定期能をしてもおかしくない。
「東京・ロンドン・バリ・ニューヨーク、気ままに世界をドライビング」する能の劇団が存在すべきだし、そうして世界の演劇ファンに「観たことないものだけ見せてあげる」ことができたときにこそ能は日本が世界に誇る芸能になりえると信じている。
今回の企画には、韓国だからこそできる韓楽とのコラボを含めた能楽公演を、初めて能を観る韓国人向けに行って、ほぼ満席の観客を満足させた点に大きな意味を持つ。ネットカフェで仮眠しただけでまだゆめまぼろしの中にいるが、今の印象をまとめておきたい。
能の演目としては、舞囃子の「高砂」、装束をつけての半能の形での「羽衣」、半能で脇と作物の牡丹の花を出さない形での「石橋」だった。
満次郎師は神・天女・獅子という登場人物を見事に演じ分け、能を全く観たことがなければそのジャンルを知らない韓国の人が見ても、如何に鍛えられた役者であるかが伝わったと思う。
そして満次郎師の演技が、自己流で作られたものではなく、歴代の役者が台本と所作を練り上げて作ったものでそれが満次郎先生に現在伝承されていることも。
ワキがいないのは少し残念だったが、地謡三人でも聞き取りやすく、声量も十分だった。
囃子方も笛:栗林祐輔、小鼓:清水晧祐、大鼓:山本哲也、太鼓;上田慎也というメンバーで、特に「石橋」の囃子の気迫には韓国の人も感動していたように思う。
韓楽を僕は初めて耳にした。
「トリ・アンサンブル」というグループで、琴(ゴムンゴ)がホ・ヨンジュン、正歌(チョンガ)がカン・グォンスン、デグム(笛)とチャング(鼓)がミン・ヨンチ、ピリ(笛)がイ・ソクジュだが、何より音楽としてとても美しかった。トリ・アンサンブルも囃子方もともに鍛えられたミュージシャンだった。
この公演に来て本当に良かったと心底思ったのは最後の韓楽と能楽のコラボレーションの「光明(ガンミョン)」だった。
阪神淡路大震災の犠牲者追悼のために作られた曲と説明があったが、韓楽を含めたコラボレーションとしては初演だと伺った。
恋人を失って深い暗闇の中にいる女が紅入の厚板唐織(?)を着流し風につけて現れ、恋しい人を失った喪失感を述べる。恋人の喪失感は「松風」などにも表現されるが、この女性は生きていて生きがいを無くしており、感情を抑えているというのがよく表現されていたと思う。
悲しみの中にいるが、美しく上品な女性だった。
囃子がはげしくなり、女性が上着をとると下は緋の袴に赤地の摺箔で、悲しみを抑えきれなくなった激しい感情を舞で見せた。
しかし男への嫉妬ではないから鱗模様は入らない。このような摺箔は初めて拝見したので見た目にも楽しかった。
悲しみの表現、能の囃子方の掛け声と、韓楽の音色で十分伝わった。
最後激しい動きから一転舞台に座り、スポットライトが当たった場面で、この女性は悲しみをわすれることは出来ないまでも慰められていて希望があるように思えた。
この部分は作者と満次郎先生に演出意図を尋ねてみたい。能や古典芸能には作者の演出意図と違ったところで間違って感動することがあると思う。だから間違って感動しているのかもしれないが、僕はぜひ名古屋で再演して頂きたいと思ったし、その時には椙山の学生に勧めてともに拝見したいと思った。
ほぼ満席だったが大半は勤め人風で大学生も多く、観客の高齢化は全く見受けられなかった。
満次郎先生の韓国語のあいさつは観客を沸かせ、この先生はエンターテイナーなのだなと思った。
この公演をツイッターで教えて下さった満次郎ガールズさんと、お忙しいところ厚かましくもフェイスブックのダイレクトメッセージで依頼してチケット手配してくださった満次郎先生に心より感謝する。
これから六月二十九日まで韓国翰林大学日本学研究所に滞在して植民地時代韓国の日本人社会の芸能について調査する。海外への能楽や伝統芸能の普及について、内向きに考えてみたい。
