日中はすっかり春の日差し。お庭では木瓜が咲きだしました。
韓国ツアーの話にも決着つけたいんだけれど、まずは日曜日の別会能の感想にカタをつけてしまおうと思います。
(前編と後編でまとめたいんですけどねぇ…。)
え~、まずは「景清」から。
実はこのお能、まり子は素人会で(それも後半だけ)観たのが唯一の観能経験。
だから今回、非常に楽しみにしておりました。配役も魅力的だし!
シテは渡邊旬之助師。
声を大にして言いましょう!
渡邊荀之助師はウマイっ!
このままTVとか映画とかに出しても、俳優として(自然体の演技で)やってのけられるのは、宝生流の中じゃあ唯一この方だけだけではないでしょうか、ってぐらい。
モチロン謡も絶品です。
「観能ガイド」に紹介されている「松門の謡」は、舞台大小前に置かれた作り物の藁屋(最初はうぐいす色の引き回しが掛かっている)の中で謡われます。
ペーペー観能者

なんかこれだけで、胸に迫ってくるものがあります。
床几に腰掛けての三保谷四郎との錣引きの仕方話でも、気持ちは八島の戦いの若い日に戻って語っていても、肉体は老いているのだから若い日のようには動かない…。
まさにホンマモンの「景清」がそこに居るような錯覚が…。

最後、娘の人丸と別れるところでも、藁屋の前ですれ違うと景清はワキ座の方を向き、決して娘が去ってゆく方を名残惜しそうに見ることはしません。
しかし全神経を背中に集中させて、あたかも背中で凝視するが如く、娘の気配を追っているのです。
今生の別れとなるこの瞬間、こみ上げるものを奥歯で噛み殺して堪えている表情。
それがハッキリと「面」に浮かんでおりました…。
思わず、落涙…。

しかし、シテもヨカッタけれどこの「景清」を支える地謡がヨカッタ

重々しいんだけれど重くなりすぎず、無骨な侍の一生を語るに相応しい謡。
強いて言えば「自分は不器用ですから…」という高倉健を彷彿とさせるみたいな謡?
(えらく例えが世話っぽいですけどネ…)
さて、次の「源氏供養 真之舞入」にちょと触れておきます。
(狂言と独吟&仕舞については省略します。)
なんでもこの小書は加賀藩にお輿入れした公家のお姫様の言葉遊びから作られたものだそう。
確かに、源氏物語五十四帖の巻名を全部組み込んである上に、序之舞まで付けちゃうなんて、光の君にトキメク乙女ちっくなお姫様はさぞ

まり子も、小書付きのは初めての鑑賞でゴザイマス。
ただね~、序之舞はね~、要らないデショ?って思いました。
散々、長い(二段)クセで舞っているのに、もういいじゃん、わかりましたよ、って感じです。
ま、それはさておき。
おシテの装束ですが、まり子的には今回???でございました。
多分、かなり良いものなんだろうけど、前シテは金地に菊?なんだかキンキラした感じ。
後シテは、赤地に金箔押しの大きな源氏香模様の大口に、藤色の長絹。
長絹には(多分)直接花を描いてあったんじゃないかなぁ~。
しかし長絹が、色合いといい模様といい優しい女らしいはんなりしたものに比べ、
赤大口の、大きな源氏香模様が強すぎるというか主張しまくってるというか、なんかアンバランス。
なんとなく、シテの紫式部(の霊)に清少納言(の霊)が、
おんぶオバケになって貼り付いているような印象…。

次の「道成寺」と装束の雰囲気を変えたかったのかなぁ、とか
「源氏供養」だから赤大口に「源氏香」模様を選んだなのかなぁ、とか
いろいろ推測はしてみるのですが、ちょっとコーディネイトに疑問は残ったままでした。
しかし、装束コーディネイトに疑問が残りつつも「源氏供養」を観ていたまり子に再び

それは何か…。
それはキリの謡なんですが、
よくよく物を案ずるに 紫式部と申すは かの石山の観世音
かりにこの世にあらわれて かかる源氏の物語
これも思えば夢の世と 人に知らせん御方便
げにありがたき誓いかな 思えば夢の浮橋も
夢のあいだの言葉なり 夢のあいだの言葉なり
上記の色が変わるところまでは、ヨワ吟(メロディがある謡)にもかかわらず、一本調子なんです。
色が変わるところから、ようやくメロディが復活する…。
今まで、何でこんなに不自然な謡なんだろう、と思ってたんですが、この瞬間ふいに、
一本調子のところは、
ずっと続いていた安居院の法印の法要の読経なんだ!
と気づいた?のです。



そしてメロディが復活するところは、安居院の法印の目の前で舞っていた紫式部の霊が正体?を現した、つまり石山の観世音菩薩がそのお姿をハッキリ見せた瞬間だったのだ、と思ったのです。
大いなる奇特を目前にした安居院の法印の感動が
「誓いかな」の謡で表現されているのではないかと…。
ということで、強引に?前編を幕といたします。
後編では辰巳満次郎様


乞う?ご期待?
