
昨日の東京大薪能にはお出かけになりましたか?
まり子はモチロン出かけましたとも!
ヨカッタですよ~♪
感想とかは別の記事にアップしますね。
昨晩の興奮も覚めやらぬ(ソレはまり子だけ?)まま、辰巳満次郎様は、
土曜日はもう「岩村城址薪能」にご出演です!
それも「黒塚」!
スゴイですね~、コワイですね~。
(故・淀川長治氏ライクに読んでね)
まり子は、毎年こちらの岩村城址薪能に辰巳満次郎様がご出演なさって
おられるのは、知ってました。しかし、ハナっから行く気もないし、
岩村って場所がどんなところかってコトにも、興味が全くわかず、
ふう~ん、てぐらいのノリしかありませんでした。
しかし、何気なく辰巳満次郎様HPのお知らせ
「いわむら城趾薪能は28日(土)開催です!」を見ていて、最後の記述、
昔ながらの城下の面影を遺し、造り酒屋さんや、
カステイラ屋さんもあります。
また、「女城主」の悲哀伝説も・・・
是非、山奥の風情ある城趾までお越しください。
が妙にまり子の目を捉えます。
う~ん、岩村城址ってどんなトコロなんだろう…、と
俄然興味がわいてまいりました。
岩村町観光協会HP
http://iwamura.jp/
このサイトにイロイロ書いてあります。
特に、女城主の里「岩村」…。コレってなんなのでしょう。
パクってご紹介いたしますと、
女城主と呼ばれているのは、父が織田信定、甥に織田信長を持つ、
修理夫人、おつやの方、岩村殿とも呼ばれる女性でした。
え~、びっくり!
まり子は歴女じゃあない(能女かな?それも宝生流限定♪)けれど、
それでもちょっと興奮しました。
この岩村城(岐阜県恵那市)は信州と美濃のはざまにあり、三河・尾張・
美濃・信濃四国を結ぶ交通上の要地。
戦国時代、織田信長にとっては甲斐や信濃へ進む拠点として、武田信玄
にとっては美濃攻めの拠点として、両者から虎視眈々と狙われていました。
その時の岩村城城主は遠山景任@実は武田寄り。
そこで織田信長は何とかこの遠山氏を抱き込むべく、政略結婚として
自身の叔母(信長よりも年下)を嫁がせました。これが岩村の「女城主」
修理夫人と呼ばれた人で、絶世の美女だったらしいです。
妹のお市の方も美女だったし、これは信憑性アリですね。
しかし子供はなく、信長の五男御坊丸(織田勝長)を養子として迎え、
遠山氏の後継ぎにしました。
ところが武田信玄が美濃攻めを開始した頃、なんと遠山景任が病死
してしまい、後継ぎの御坊丸もまだ幼く、実質、修理夫人が城主と
して采配を振るい、家臣らと共に戦ったそうです。
(だから「女城主」と言われる。)
ところが岩村城は日本三代山城と謳われた難攻不落の城、容易には
落ちません。しかしその頃の信長は援軍を出せる状態でなく、まさに崖っぷち

この城を包囲していた秋山信友が前代未門の和睦の条件を打ち出します。それは、
「降伏して城を明け渡し、私の妻になれば御坊丸を跡継ぎとする」
というトンデモ案。しかし、それを突っぱねれば家臣や領民を死なせて
しまうことになる…、そう考えた結果、修理夫人は和睦に応じ、岩村城を開城しました。
しかし、御坊丸は跡継ぎとはなりましたが、甲斐に人質として送られてしまいます。
これを聞いた信長の怒りはすさまじく、まさに、


その数年後、勢力を盛り返した信長はこの岩村城奪還すべく岩村攻めを開始します。
その攻勢すさまじく、ついに秋山信友は家臣や領民に危害を加えないことを
条件に降伏することになりました。
しかし信長はその約束を守らず、落ちてゆく家臣や領民を皆殺しにした
ばかりでなく、信友と修理夫人を「逆さ磔」!!!の極刑にしたとのこと。
この時修理夫人は
我れ女の弱さの為にかくなりしも、叔母をかかる非道の処置をなすは
必ずや因果の報いを受けん
と呪いの言葉を絶叫しながら果てたとのこと。
コワイ~

そんなところで「黒塚」…。
コワイです~

そんなお話があるところなんですね。岩村町。
そんな凄絶な最後を遂げた修理夫人だけれど、自らを政略結婚の犠牲にしても
御坊丸と家臣や領民を守った「女城主」として称えられ愛され、
岩村町観光協会HP上に、可愛らしいキャラクターとして蘇っています。
このHPを見てたら、なんだか岩村町に行きたくなってしまったまり子…。
今年はムリだから、来年、岩村城址能を見るのをメイン目的に

岩村町に遊びにゆこうカナ~、と真剣に考え出したいるのです。
あ、わすれてました!
土曜日が晴れて、チケット売り切れの、すばらしい薪能になりますように♪
まり子
