東京大薪能「放下僧」感想 | 能楽師 辰巳満次郎様 ファンブログ

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直面のシテを演じるのが極めて難しいことは、改めて世阿弥先生の指摘を
引き合いに出すまでもないだろう。その全体的な表情や視線の向け方などなど、
面に比べて個人差や自由度があまりにも大きいため、曲に対するシテの解釈や
表現力の巧拙が、ほとんどそのままの形で能に反映されてしまうからである。
その点、今回の満次郎先生による直面は、この曲の背後に潜む人間模様
―兄弟愛―を十分に表現し得ていたのではないかと思う。

 単純な憎しみや怒りを表現しているわけでもなく、かといって悲壮な覚悟を
背負っている様子でもない、全体として泰然とした気高い表情から感じ取れるのは、
この曲が単なる仇討ち物語ではない、ということである。

もちろん、この曲を簡単に要約してしまえば、
「シテの弟である小次郎がシテを説得して兄弟揃って親の仇を討つ」というだけの
ことである。しかし、少なくとも観客の一人である私がシテの表情から感じ取れたのは、
この曲の主題はむしろ、敵討ちの底に潜む兄弟愛にこそあるのではないか、ということ
である。

一見この物語は、ツレである小次郎が主導権を握っているように見える。
しかし本当に親の仇を討ちたかったのは、シテである兄の方ではなかったのだろうか。

そして、弟の小次郎はその気持ちを汲んだ上で、あくまで自分が説得して協力してもら
ったという形にすることで、出家している兄に主導権を握らせたのではないだろうか。

自分が悪者になってでもあくまで兄を立てるという健気な気持ちは、仇討ちのまさに
そのときにおいても存分に発揮されている。自分があえて勇み足を示すことで、
やはり「弟の逸る気持ちを抑えて冷静に本望を遂げる」という形で兄に主導権を
握らせているのである。他方、シテである兄の方も、実はこうした弟の気持ちには
既に気づいていたのではないか。

しかしそれでもなお、こうした気持ちに気づかないふりをして淡々と仇を討つことで、
弟の気持ちに報いようとしていたのではなかろうか。
憎しみや怒りに駆られて仇を討つというより、自分の力ではどうすることもできない
大きな運命を受け入れ、泰然とその流れに身を任せているかのようなシテの表情は、
こうした兄弟愛の物語を静かに語っていたように感じられる。

だからこそ、仇討ちが終わった後に観客が感じる一種独特の爽快感は、決して単なる
カタルシスの共有ではない。むしろ、お互いの言葉を介さない慮りが、仇討ちという
具体的な行動を介して通じ合う、まさしく兄弟愛の結実に基づくものなのである。

シテが最後に見せる大きくゆったりしたユウケンの型は、まさしくその象徴と
いっていいだろう。満次郎先生が描いた美しい三角形は、しっかりと観客の脳裏に
焼きついているに違いない。


人間科学者  田所 重紀