後半は、西王母かと思った、と書いたぐらい、和泉式部ではなく、女神でした。
歌舞の菩薩=女神なんでしょうね。
ところで当日宝生会で配布していたプログラムの解説(by 藤城繼夫氏)には、
こんな記述がありました。
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後半は和泉式部(後シテ)の亡霊の出現で歌舞菩薩となった姿でクリからサシ、
クセへかの難解を極める詞章がつゞき、舞台は式部の舞う優雅な舞(序の舞)
という奇妙な舞に堪能しつつ
「六字の額を皆一同に礼し給ふはあらたなりける奇瑞かな」とわからぬなりに
欣喜礼拝しつつ、法悦にひたりながら一曲が終了します。
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改めて読むと、なんじゃこりゃ



なんだか私の超意訳の方がイイじゃん、ってそれは言い過ぎだけど…、…、…。
私の考えでは、阿弥陀様がどんなに衆生を(死後に)救いたくても、救われる為の
手段を生きている内に「愚痴の我等」に知っていてもらわねば救えないんだよ~、
ってことで誓願寺の額にそのパスワードを一遍上人に書いておいてもらったんではないかと。
でも、そんな屁理屈よりも、この世の出来事とは思えないくらいの美しい女神
(=歌舞の菩薩となった和泉式部)の舞と音楽(囃子と謡)にただ酔う、
ってことが大事なんじゃないかな~、と思いました。
で、満次郎様の後シテは、紫の紗?に金箔?で唐草模様を描いた舞絹に緋の大口
(後ろに茣蓙が入ってる大きな袴)、黒垂(黒のストレートロングヘア)に天冠
(お雛様のビラビラが付いた冠みたいなやつ)に「泣増」という面(オモテ)をかけてます。
今回、エロティックさの期待を裏切られたのは、この面のせいもあるかもしれません。
「泣増」という面は、ちょっとどんな顔なのか想像がつかない人が多いと思いますが、
大胆に私の意見を言わせていただければ、それは今の皇后美智子様の(シワと眉を取った)
少し憂いを含んだお顔、です。
舞絹(マイギヌ)というのは、中振袖ぐらいの長さで袖幅を倍にした薄物の打掛
みたいなもので、ウエストでブラウズして長さを膝下ぐらいになるように調節し、
余った分は上半身がカパカパしないように袴に挟んで整えた着方なんです。
なんとなぁく、満次郎様には小さめな気がします…。
昔の人って小さかったから、今の能楽師巨大化時代には、装束もラージサイズを
補充しないと、いけないんじゃないかなぁ、と余計な事を考えました



さて、解説によれば奇妙らしい序之舞ですけど、これはもしかしたら「海人」
なんかと同じように早舞
(そんなに早くはなく、バンシキ調というハイトーンの笛の音で舞う)にすべき、
と言いたいのかもしれません。
でもここでは、和泉式部が成仏した喜びを舞う訳ではなく、極楽浄土の有様を一遍上人
に見せる舞だから「羽衣」なんかと同じように序之舞でいいんだと思うのです

太鼓が入ると非常に華やかな感じになり、なんかソノ気になって観ていると
空中に様々の菩薩が見えるよう

満次郎様は、ローギアで徐行し続ける車とは思えないぐらい、優雅にゆっくりと
滑るように舞い続けます。
翻す袖が…、ヤッパちょっと小さいか…、美しかったです。
3日続けて「誓願寺」をお務めになり、疲労もピークに違いないと思うけれど、
それが故に余計な気負いや力みは全て消えて、「有難や」の心持ち
(それがこのお能の主眼でもあると思うのですが)一筋で、いやそれさえも消えた
「無」で舞われていたように思いました…。
それで、前から感じていたことではあるけれど、満次郎様の本質って案外こういう
三番目ものにあるのではないか、という疑いをいっそう濃くいたしました



これからもイロイロ拝見して見極めねばなりません


ご一緒にいかがでしょう?



Why not MJR(満次郎)?