「どうせ死ぬし」という楽観的な究極の悲観 | マニンゲンメンバーのブログ

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「楽観的」と「ポジティブ」は違うと思うし、

「悲観的」と「ネガティブは」はこれまたちがう。


ちなみに「楽観的」を英語で言うと「optimistic」で、「悲観的」は「pessimistic」となる。

「pessimistic」には「厭世的」という意味もある。


でもって自分はと言うと、ポジティブな性格ではないが楽観的だと思うし、悲観的ではないがネガティブだと思う訳。


でも、これってポジティブとネガティブは対極的なものだと思うが、楽観的と悲観的は対極的でもないのかしらん?と。


例えば仕事で失敗したとしよう、舞台の本番で失敗したとしよう。

ポジティブな人なら、「失敗したけど、これをプラスに変えて頑張ろう!失敗から学ぶこともたくさんある!」と失敗をプラスに変えるでしょう。

ネガティブな人なら、「うわー、人生終わった、やっぱ俺にはこの仕事向いてないんだ。芝居って向いてないんだ。辞めたほうがいいのかな。」とかとことんマイナスに考えるでしょう。

楽観的な人なら「まっ、いいか」で終わるでしょう。

悲観的な人なら「死にたい、産まれてきてごめんさない」くらいは思うでしょう。


極度の楽観というのは「どうせ死ぬし」という究極の悲観とあまりかわりないと、町田さんも言ってました。

(I was born.のチラシ参照。)

楽観的な人の楽観がどこから来るかって突き詰めると、この「どうせ死ぬし」の「死ぬ」よりも「どうせ」にあると思う訳です。


イソップ童話の「狐とブドウ」の狐も「どうせあのブドウは酸っぱいんだ」と諦めてます。


物事を「どうせ」と捕らえれる人は、何に付けても楽観的な思考で物事を考えられるのではと思うのです。

「どうせ○○」って他人向けると凄い酷い言葉になるのに、自分に向けられると物凄く楽観的というか、都合のいい言葉になると。


この「どうせ」という言葉。

辞書で調べますと・・・

( 副 )

〔副詞「どう」に動詞「す」の命令形「せよ」の転である「せ」が付いたもの〕
①ある状態や結果を,初めから定まったものとして認める気持ちを表す。いずれにしても。しょせん。 「 -負けるにきまってる」 「 -ろくな物は作れないだろう」 〔多く,投げやりなあきらめや,軽蔑の気持ちを込めて使う〕
②ある事態を受け入れるしかないのなら,むしろその機会を積極的に利用しようとするさま。いっそ。 「 -作るならいいものを作ろう」 「 -なら三人分作ろう」 「 -のことだから,頂上まで行ってみよう」

と、そのまま否定的な「投げやりな諦め、軽蔑の気持ち」という意味と、肯定的な「ある自体を受け入れる、その機会を積極的に利用する」という意味があると。

楽観的と悲観的はとどのつまりは「どうせ」の応酬だと思うので、基本的には同じものなのだと思います。
だから究極の悲観は楽観になるし、その逆も。

まぁ、だからと言って楽観的な人が悲観的になる訳でなし。
そんなお話しです。