文久2年(1862年)、清河八郎が江戸で将軍上洛の警護を目的とした浪士組を結成しました。浪士組が上洛すると、清河八郎は将軍上洛の警護ではなく尊皇攘夷の先鋒を唱えました。同意した者は清河八郎に率いられて江戸に戻りましたが、あくまで幕府のために任務を果たそうとする近藤勇や芹沢鴨ら24名は反発をして袂を分かち、壬生浪士組を結成し、これが新撰組となりました。
しかし、清河八郎が暗殺をされると浪士組は組織目的を失い、幕府は浪士組を清河八郎の出身地である庄内藩預かりとし、新たに「新徴組」と名付けて江戸市中の警備を当たらせることにしました。
ところが新徴組は幕府の邪魔となる商家を襲ったり、金品を奪っては酒色に溺れていました。
慶応4年(1868年)、江戸で薩摩藩が旧幕府側を挑発したことに対して庄内藩が薩摩屋敷を襲いました。このときに新徴組も破壊行動に参加をしています。これが戊辰戦争の発端となりました。
戊辰戦争では旧幕府側が敗退を続けると、新徴組は庄内藩と行動を共にして新政府軍に抵抗を続けましたが、やがて庄内藩は降伏しました。
戊辰戦争後は数少ない生き残りが庄内地方にて開墾作業に従事したそうです。
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