鹿ヶ谷の陰謀 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

第1回『大いなる小競り合い』
第2回『佐殿の腹』は
安元元年(1175)の話でしたが、
次週・第3回の設定は
治承3年(1179)とのこと
なので
その間の都の情勢を勉強しておきましょう


安元3年(1177)6月
京都郊外・鹿ヶ谷で行われた
平家打倒の謀議事件

後白河院近臣の
藤原成親、藤原成経、西光、僧俊寛らが画策
密告によって発覚し
西光は死罪、成親は備前国に流され殺害、
ほかは薩摩国鬼界ヶ島に流されました

僕は学校で「鹿ヶ谷の謀議」と
習ったように思うのですが、
Wikipedia 等では
「鹿ヶ谷の陰謀」としています

平清盛によるでっち上げ説
後世の脚色という説もあるようです


順を追って見ていきましょう


後白河院と平清盛

元々相容れない性格の二人でしたが

後白河院と平滋子(清盛の義理の妹)との間に

高倉天皇が生まれたことで

院と平家は

突如として密接な関係となり

滋子の絶妙な調整能力もあって

良好な関係が保たれました


ところが

安元2年(1176)7月
滋子(建春門院)が亡くなると
院の近臣と平家一門の
人事をめぐる対立が
一気に表面化します

12月には
後白河近臣・藤原定能、藤原光能が
平知盛(清盛4男)を超えて蔵人頭になると
翌月には巻き返しとして
平重盛(清盛嫡男)が左大将
平宗盛(清盛3男)が右大将になりました

◆白山事件

安元3年(1177)4月
後白河近臣である西光(藤原師光)の
嫡男藤原師高が加賀国司となり
二男師経が目代として現地に赴任
白山三社八院の末寺を
焼いてしまうという事件がおこりました

白山は山門(比叡山延暦寺)と協力
寺を焼いた責任者を処罰するよう
後白河院に強訴(ごうそ)します

内裏に向かった僧徒たち
迎える平重盛の兵が神輿に矢を放ち
死者も出るなどの大混乱
事態はさらに悪化していきました

後白河院は
山門の要求を受け
師経を流罪としますが
師経の父・西光が懇願すると
それを聞き入れ
今度は
天台座主明雲を
伊豆国流罪としました
ところが、
明雲を護送の途中
僧徒たちが身柄を奪還
比叡山に逃げ込んだのです

激昂した後白河院
山門(延暦寺)攻撃を決意
清盛にも協力を求めました

後白河院〈西田敏行〉


◆鹿ヶ谷の陰謀

出撃直前の6月1日夜半
清盛の西八条邸を
多田行綱(ただゆきつな)が訪れ
鹿ヶ谷の謀議を密告したのです

・・鹿ヶ谷の山荘で
後白河院と近臣たちが
平家を倒さん!!との企てを
謀議しているようだ・・

多田行綱は
摂津源氏の流れを汲む武将
後白河院の北面武士に在籍
鹿ヶ谷の謀議では
藤原成親から
反平家の大将を望まれましたが、
平家の強勢と院近臣の醜態から
計画の無謀さをさとり
平清盛に密告したとされています
 多田行綱は
 のちの源平合戦でも
 いろいろあるみたいです
 大河ドラマに登場するようでしたら
 その時点で改めて勉強しましょう

謀議を知った清盛は
延暦寺攻撃を中止します

延暦寺に向かうはずだった兵力を
そのまま鹿ヶ谷へ向かわせ山荘を襲撃
院近臣たちを捕らえ多くの者を殺害しました

捕縛された
西光は
拷問にかけられ
全容を自供させてから
斬首となりました

藤原成親は
平重盛の正室・経子の兄です
重盛の懇願もあり
死罪は免れましたが
備前国配流
のちに殺害されています

平重盛は
白山事件で
家人が矢を神輿に当てる失態を犯したこと
義兄・成親の助命を求めたのに
結局は殺害されてしまったことで
面目を失い
6月5日には左大将を辞任しています

この結果
平宗盛が
清盛の後継者の地位を確立したようです


この事件は

平清盛が仕組んだ謀略と

一般的には考えられています


そもそも
後白河院は
平清盛の協力がなければ
延暦寺に対抗などできません
ゆえに
この時点で平家打倒を謀議するのは
不自然なわけです

平清盛としては
神仏の名を掲げる強訴は厄介で
寺社と敵対することを嫌っていました

なので
鹿ヶ谷の謀議発覚で
延暦寺攻撃が中止となり
終わってみれば
清盛の望む結果が得られたわけです

明雲流罪のきっかけを作った
西光が処刑されたことで
延暦寺は清盛に感謝したといわれます

もちろん
後白河院と平清盛の関係は
鹿ヶ谷の陰謀をもって
完全に瓦解したことになります

平清盛〈松平健〉