治承3年の政変 | 芳村直樹のブログ

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◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

第3回に進む前に
その頃の都の情勢の勉強をつづけます


平清盛〈松平健〉


安元3年(1177)
鹿ヶ谷の陰謀により
後白河院と平清盛の関係は
危機的状況になります

しかし、この時は
「忠ならんと欲すれば孝ならず
 孝ならんと欲すれば忠ならず」
院と父清盛の板挟みで苦悩する
平重盛が
進言した甲斐もあり
西光の処刑と
院近臣たちの配流にとどめ
後白河院の責任は問われませんでした

治承2年(1178)11月
中宮・徳子(清盛の娘)が
80代 高倉天皇の第一皇子を出産
親王宣旨が下され言仁(ときひと)と命名
立太子します(のちの安徳天皇)
東宮周辺では
院近臣が排除され
平家一門と親平家派の公卿で固められます

治承3年(1179)
院と清盛の調整役
重盛が病に倒れ
7月29日 逝去します 享年42

父清盛は大いに悲しみますが
後白河院は
重盛の知行国越前を没収しました
本来ならば
重盛嫡男・維盛が継承すべきもの
院の冷淡な仕打ちに
清盛は憤慨します

調整役の重盛の死により
後白河院と清盛の関係は
完璧に崩壊してしまうわけです

また、清盛は
前の摂政近衛基実の嫡男
近衛基通にも自分の娘を嫁がせていました
今の関白松殿基房は
あくまで中継ぎのはずなのに
基房嫡男8歳の師家が
20歳の基通を差し置いて
権中納言に任官されたことも
清盛の神経を逆撫でしたようです


後白河院〈西田敏行〉



◆治承3年の政変(クーデター)

治承3年(1179)11月14日
清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛
人事権を掌握し
反平家派・院近臣たちの排除に成功します
松殿基房を追放
近衛基通を内大臣・内覧・関白に任命しました

天台座主・覚快法親王は罷免
親平家派の明雲が復帰しています

後白河は
鳥羽殿に幽閉状態となり
院政は停止されることとなりました

この時
後白河の第3皇子
以仁王(もちひとおう)も
所領没収されたとのことです

翌年(1180)2月
高倉天皇は言仁親王に譲位
81代 安徳天皇が誕生し
平家傀儡の高倉院政が開始されます