川路聖謨の墓 | 芳村直樹のブログ

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○4月8日 ウォーキングの続き

春日局ゆかりの
麟祥院をおいとまして
しのぶしのばず無縁坂を下り
東天紅の裏通りを北へ歩くと
池之端の寺町に至ります

忍岡(しのぶがおか)小学校の通学路
忍小通り(しのぶしょうどおり)
という路地に入り

川路聖謨(かわじとしあきら)の墓がある
大正寺(たいしょうじ)を参拝しました


勘定奉行の川路聖謨
大河『青天を衝け』では
平田満が演じています

平岡円四郎(堤真一)を
徳川慶喜(草彅剛)の側近として
推薦した人物です

この画像は Wikipediaより借用

川路聖謨(1801〜68)
豊後日田代官所の役人の息子に生まれ
御家人出身ながら
勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、
大阪町奉行、勘定奉行などの要職を歴任しました

先週の大河『青天を衝け』では
井伊直弼が大老に就任し
川路聖謨は
西丸留守居役に
左遷されてしまいました

このあと
文久3年(1863)
外国奉行に復帰するも
役回りに不満があったようで
慶応4年(1868)
割腹の上 ピストル自殺をしたとのことです
(日本でのピストル自殺第一号)



●大正寺
・台東区池之端2-1-21

日蓮宗盛林山大正寺

慶長9年(1604)
円通院日亮が草庵を結び
寛永8年(1631)
日蓮350回忌に
本立院日盛(2世)が
現在の寺号に改めたと伝わります
旧本山は京都妙覚寺



それでは

川路聖謨の墓所を
お参りします



合掌。


>説明板コピー
川路聖謨墓
台東区池之端2-1大正寺
享和元年(1801)4月25日、豊後国日田(現大分県日田市)領代官の部下、内藤吉兵衛の子として生まれ、幕臣川路光房の養子となる。幼名は弥吉または万福。通称を三左衛門・左衛門尉といい、敬斎と号す。
文政元年(1818)支配勘定出役に就任し、評定所留守役・寺社奉行調役・勘定吟味役等を歴任。ついで、佐渡・奈良・大坂町奉行等を経て、嘉永5年(1852)勘定奉行兼海防掛に任じられた。
翌嘉永6年、米使ペリーの浦賀、露使プチャーチンの長崎来航により、国防の急務を痛感し、江戸湾品川沖に台場を築く。特に露使とは、応接全権となって交渉に当たり、樺太の北緯50度以南、千島列島エトロフ島のわが国領有を主張した。
井伊直弼の大老就任により左遷されるが、文久3年(1863)外国奉行に起用された。のち病のため退官し、江戸開城直前の明治元年(1868)3月15日に自害した。
『長崎日記』『下田日記』『京都日記』など、彼の日記類は貴重な史料である。
平成7年3月   台東区教育委員会