春日局の墓 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです


東京都でも
蔓延防止等重点措置が適用されるようです

自分の店は
深夜営業自粛のため
引き続き休業せねばなりません
つまりは
自分の「プー太郎生活」が
まだまだ続くということです

ひきこもりの運動不足
謂わゆる「コロナ肥り」
加えて
精神的混乱
不安やイライラを解消するため
ウォーキングをしていますが、

不要不急の外出は控えろ
とのお達しなので
「密」な場所は
避けるようにしています

なかなか難しい毎日です


○4月8日(木曜日)

日々の行動を記録した写真を
FBのアルバムにあげています

現在のアルバムのタイトルが
「春日記」(はるにっき)

字面じづらから
「春日局」を連想したので

お墓をお参りすることにしました



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文京区と春日局
文京区「春日」の地名は春日局が乳母として仕えた3代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり文京区は春日局と歴史的に深い縁があります 昭和64年(1989)1月より一年間NHK大河ドラマ『春日局』が放映されました 文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設立し区民の皆様と共に区内の活性化地域の振興を図ることを目的として種々の事業を推進しました ここに本事業を記念して春日局像を建立することにいたしました
平成元年12月吉日 文京区春日局推進協議会


●麟祥院(りんしょういん)
・文京区湯島4-1-8



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春日局の墓 麟祥院 区指定史跡
春日局(天正7年〜寛永20年)(1579〜1643)は、3代将軍徳川家光の乳母で名はお福。
稲葉正成との間に3児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604)家光(竹千代)が生まれるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。
この麟祥院は、寛永元年(1624)春日局隠棲所として創建され、報恩山天澤寺(てんたくじ)と称した。局の死後、寺は局の菩提寺となり、法名にちなみ「天澤山麟祥院」と改めた。
墓地奥にある局の墓は、無縫塔で四方に穴が貫通した特異な形をしている。
文京区教育委員会 令和2年11月




臨済宗妙心寺派 天澤山麟祥院

そして

春日局の御廟所をお参りします



大河ドラマをはじめ
時代劇で有名な
春日局が
ここに眠ります

合掌。




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春日局
幼名は福、父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三、母は刑部少輔越智道明の女(むすめ)で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長9年(1604)3代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜りました。
家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽くしたことは有名です。
寛永5年家光公25歳の折、疱瘡にかかられ、諸医の手当にも験がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。
その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が恢復しました。そのため局は、身の終る迄鍼灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。
寛永6年京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を頂戴しました。同9年再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。
寛永20年(1643)9月14日、65歳で卒し、当院墓地に葬られました。
文京区




このあと
無縁坂を下り
池之端に出ました



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青天関連です。。。