平頼綱ちょっとだけ | 芳村直樹のブログ

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日蓮十一通御書
書状が送られたうちの一人
平左衛門尉頼綱は
このあと勉強する
文永8年(1271) 龍ノ口法難で
日蓮を処刑しようとする人物です

●平頼綱(たいらのよりつな)

8代執権北条時宗に仕えた御内人
はたしてどんな人間だったのでしょう?

ネット検索してみると
かつてのNHK大河ドラマ
『北条時宗』の平頼綱役
北村一輝が大熱演だったらしく
評価する記事など多くみられました

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大河『北条時宗』の平頼綱

勿論TVドラマなので
フィクションの部分もあるでしょうが
あらすじ等を読んでみると
主君時宗への忠誠心と
敵に対する残虐性を併せ持つ
かなり強烈なキャラに描かれています

実際のところも
二度の蒙古襲来を経て時宗没後
内管領として幕府の実権を握り
歴史年表を賑わすのですから
相当の人物だったと推察されます

この先もっと勉強せねばなりません

歴史上の有名人に
よくありがちですが
幼少時のことは非常に曖昧です

御内人の勉強をした時
平盛綱という名前が出てきました

参照ブログ●御内人の勉強のつづき

平頼綱は
その平盛綱の
子供とも孫ともされているんです

子供とも孫ともと言われましても
子供と孫では大違いだと思うんですけどw

とにかく不確かなことだらけ
誕生年も不明で
仁治2年(1241)頃となってるし
大河ドラマでは孤児の設定です

源氏の世の中だというのに
平、平と名乗っているのが
まずは違和感を持ちますよ

伊勢平氏の流れをくむ
との説もあるにはありますが
それもでっちあげかもしれません

そうそう
鎌倉幕府の御家人は
源頼朝の方針で
天皇から賜った源、平などの姓でなく
北条、三浦などの苗字を名乗らせ
将軍の家臣であることを自覚させた
ということなんですよ

それなのに
平、平と騒いでいるのは
盛綱、頼綱が
御家人ではなく
得宗家の御内人だから
そのシバリがないということ

なんだかねえ〜 (><) って感じです

頼綱の「頼」は
おそらく元服の烏帽子親が
5代執権北条時頼で
その偏諱を受けたものとされますが
それもはたして・・・

Wikipediaによると
『吾妻鏡』登場は4回とのことです

1>
建長8年(1256)正月4日
御的始の射手の名簿の中に
「平新左衛門三郎」
2>
建長8年(1256)正月7日
来る11日将軍の八幡宮年始御神拝
供奉人催促の中に
六番「平新左衛門三郎」
3>
正嘉2年(1258)正月11日
やはり御的始射手の中に
三番「平新左衛門三郎頼綱」
4>
弘長3年(1263)元日
垸飯の名簿の最後のほうに
一御馬「平新左衛門尉頼綱」
との記載があります


日蓮十一通御書(1268)の頃には
時宗の側近として
ある程度の力を持っていたものと
僕は想像しています

文永8年(1272)12月12日
時宗の嫡男 幸寿丸が誕生し
(のちの9代執権貞時)
頼綱夫婦は乳母父を任されます

頼綱の出自が孤児だとしたら
これはスゴイことですよねえ〜

時宗と頼綱との個人的関係が
仲良しこよしだったのかもしれません

とにかく興味津々
注意深く観察していこうと思います。。。