建長5年(1253)
立教開宗宣言をした
日蓮は
まもなく鎌倉に入ると
松葉ヶ谷(まつばがやつ)に
草庵を営みました
草庵跡を自称する寺院が
現在3ヶ寺遺されています
●安国論寺
●長楽寺
●妙法寺 (50音順)
参照ブログ●松葉ヶ谷草庵跡
日蓮の草庵から
鎌倉幕府の御所、執権邸までは
歩いてもさほど遠くない距離です
小町大路には
辻説法跡の石碑等が建てられています
参照ブログ●日蓮辻説法阯
以来 20年近く
日蓮の鎌倉における布教活動は
松葉ヶ谷を拠点として
展開されましたが
さまざまな事件が起きたわけです
文応元年(1260)
『立正安国論』を
幕府に建白した日蓮は
「松葉ヶ谷法難」の襲撃を受け
下総国八幡荘に逃げのびました
翌年 松葉ヶ谷に戻りますが
幕府より伊豆配流の刑が下され
「伊豆法難」に遭います
弘長3年(1263)
伊豆流罪が赦免となった日蓮は
母親の危篤の報せに帰省
「小松原法難」が起こり
眉間に傷を受け左手を骨折します
一命をとりとめた日蓮は
そしてまた松葉ヶ谷に戻っています
さてほて
いよいよ「龍ノ口法難」について
勉強スタート!!です (*゚▽゚)ノ
文永5年(1268)
正月の蒙古國牒状到来を受けて
日蓮は 10月11日
執権時宗や平頼綱
そして主だった寺院に宛てて
十一通の書状を送りましたが
おそらくいずれも
返答は無かったものと思われます
文永8年(1271)
大旱魃にあたり
6月に行われた
極楽寺良観房忍性との祈雨対決では
日蓮が勝利したと伝えられます
祈祷をして雨が降ったことが
法力なのか偶然なのかは
専門家にお任せするとして
勝った日蓮が
ここぞとばかりに忍性を貶すのも
大人げないと感じるし
忍性のほうも素直に負けを認めず
諸宗の僧侶たちと相談し
日蓮を亡き者にしようと
幕府に訴えたというのですから
どちらも褒められた話ではないように
僕は思います
評定に呼び出された日蓮は
仏法の正邪を公場対決で決すべし旨
要望したといわれます
念仏者、禅僧の寺塔を焼き払い
彼らを由比ヶ浜で斬首しないと
日本国は滅ぶとまで言ったみたいです
単純に考えて
日蓮信者の方は
正法を貫いて幕府を納得させるためには
このくらいのハッタリが必要だったと
思われるでしょうが
言われたほうからしてみれば
思い上がりも甚だしいと感じたでしょう
幕府側としても
蒙古襲来という国難にあたり
国が一致団結せねばならない時に
宗教家が毒舌を吐くというのも
混乱を招くばかりで困ったものだ
という雰囲気ですかね〜
もしかしたら中には
日蓮の主張に耳を傾ける者も
いたかもしれませんが
幕府の日蓮担当係
(だったかどうかは不明ですがw)
平頼綱には問答無用でした
時宗に忠誠を誓う頼綱には
北条政権に楯突く者など
許せなかったのだと思います
同年9月12日
平頼綱は数百の兵を率いて
松葉ヶ谷草庵に押し入ります
数百という数字は
本当でしょうか?
もしもそうだとしたら
日蓮という僧侶は
よっぽど怪しい力の持ち主と
思われていたのでしょうね〜
日蓮を捕縛した頼綱は
重罪人が如く市中を引き回した上
評定所にて佐渡流罪を言い渡しました
表向きの決裁は流刑でしたが
すでに頼綱は
日蓮殺害を決めていたに違いありません
しかし そこまでの権限が
当時の頼綱にあったかどうか
そのへんの推理が難しいところです
日蓮護送の一行は
おそらく頼綱の独断で
龍ノ口刑場へと向かうことになります
鶴岡八幡宮寺の前を過ぎる時
日蓮は馬から降り
諸天善神の八幡大菩薩が
法華経行者日蓮を護らないことを
厳しく叱咤されたと伝わります
稲村ヶ崎の手前に
もう一つ 史跡がありましたよね
佐渡流罪を言い渡された
日蓮本人も
龍ノ口で処刑されることを
覚悟していた???
ま、龍ノ口に向かうことは
イコール処刑ということで
ここまで護送された時には
覚悟は当然かもしれません
袈裟懸松の前後
日蓮は
従者の少年
熊王丸に命じて
四条金吾を呼び出しているようです
いよいよ運命の時が迫ります
そろそろ
四条金吾についての勉強も
始めなければなりませんな。。。