良観房忍性
(りょうかんぼうにんしょう)は
貧民やハンセン病患者など
社会的弱者の救済に
尽力したことで知られる
真言律宗の僧侶です
参照ブログ●忍性
忍性は
弘長2年(1262)
北条重時4男(或いは5男)
北条業時(のちの連署)が創建した
多宝寺の開山として迎えられ
その後は
重時の極楽寺を拠点に活動していました
幕府からは
戒律と祈祷の第一人者とされ
蒙古調伏も任されていたと思われます
民衆(弱者)から
生き仏のように崇敬された
忍性でしたが
日蓮は忍性のことを
偽善であると批判しています
忍性の慈善事業の財源が
街道の通行税や港湾の入港税など
幕府から与えられた利権によるものと
判断したからのようです
忍性と幕府との癒着が
どの程度のものだったか
僕には詳細までわかりませんが
とにかく日蓮は
宗教家としての立場から
忍性が許せなかったのでしょう
当時の鎌倉の民衆には
絶大なる人気のあった忍性ですから
その忍性をむやみに批判する日蓮は
民衆からも嫌われたかもしれません
さて、
文永8年(1271)
いよいよ
日蓮と忍性の祈雨対決です
この年は
春から6月まで大旱魃で
一滴の雨も降らなかったみたいです
旱魃は飢饉となり
大きな社会不安が広がります
執権北条時宗は
良観房忍性に雨乞いの祈祷を命じました
これに日蓮が対決を申し込んだのです
法力に敗れた方が
改宗して相手の弟子になる
というような取決めだったようです
6月18日 忍性は
極楽寺に100余名の祈祷僧を集め
雨乞いの祈祷を行いましたが
期限の7日間を過ぎても効果はなく
さらに200名の僧を追加
7日間の延長をしましたが
一滴の雨も降りませんでした
今度は 日蓮が
田辺ヶ池のほとりで
修法したところ
たちまち甘雨が地を潤したそうです
どこからどこまでが
史実か伝承か
これまた僕には
はっきりとわからないですが
ちゃんと史跡碑がありました
参照ブログ●日蓮上人祈雨旧跡
そして
日蓮が
忍性の法力の無さを
激しく責めたことが
逆に訴えられて
龍ノ口法難につながる結果となります