日蓮十一通御書 | 芳村直樹のブログ

芳村直樹のブログ

シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



日蓮(1222〜82)の著した
『立正安国論』が
寺社奉行 宿屋光則を通じて
時の最高権力者
得宗 北条時頼に提出されたのは
文応元年(1260)7月16日のことでした

日蓮は
その書の中で
相次ぐ災害の原因は
人々が正法である法華経を信じずに
浄土宗など邪法を信じていることにあると
諸宗を批難し
このままでは国内で内乱が起こり
外国からは侵略を受けて滅びるだろう
と唱えています


{91F22ACF-46EB-48BB-B02E-6D326FB30B1C}
妙法寺 化粧窟


それから8年

文永5年(1268)正月
蒙古國牒状の到来によって

三災七難のうち
まだ起きてはいなかった
他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が
とうとう現実味を帯びてきたわけです

その年の10月11日
日蓮は
幕府要人と鎌倉の諸大寺に宛てて
十一通の手紙を送っています

宛て先
●北条時宗
●宿屋左衛門光則
●平左衛門尉頼綱
●北条弥源太
●極楽寺良観
●建長寺道隆
●大仏殿別当
●寿福寺
●浄光明寺
●多宝寺
●長楽寺

内容は
ほぼ共通しているそうで
自分の予言が的中したことを訴え
にもかかわらず
幕府が邪法に執着し
諸宗に蒙古調伏の祈祷を
行わせていることを責め
この上は諸宗との公場対決によって
仏法の正邪を明確にすべきであると
要求しているものだそうです

宛て先を
再確認してみると
執権時宗が最重要なのは勿論ですし
かねてより窓口であった
宿屋光則に送るのもわかります

ここに
平頼綱が加わっていることは
注目すべき人選で
もしかしたら当時の幕府で
かなりの実権を
握っていた人物なのかもしれません
近い将来しっかり勉強します

北条弥源太というのは
北条一門でありながら唯一
日蓮に帰依していた人物と思われます

残りの7ヶ寺は
当時の鎌倉において
影響力を持った大寺ということでしょう

極楽寺良観とは
日蓮の因縁のライバルである
良観房忍性(1217〜1303)のことです
次のブログで祈雨対決を取り上げます

建長寺道隆すなわち
建長寺開山 蘭渓道隆(1213〜78)は
南宋からの渡来僧です

モンゴル帝国(蒙古)の脅威については
祖国が攻められていたのですから
日蓮よりも事情通なわけで
(のち 1279 には南宋滅亡)
こんなことを言っては失礼ですが
僕としては
日蓮が道隆に物申すは
釈迦に説法のようにも感じます

大仏殿は高徳寺のこと
寿福寺
浄光明寺も現存します

多宝寺は
浄光明寺の隣に
長楽寺は
現在の鎌倉文学館のあたりに
かつてあった寺です


{37259E14-61A4-4E28-B93E-5CE159A04DDA}
建長寺西来庵


日蓮の予言について
当たったと捉えるかどうかは
さまざまな評価があるでしょう

日蓮の予言どおりに
蒙古が攻めてきたのは確かです
ただ
日蓮の言い分だと
幕府が邪法を信じ続ければ
わが国は滅びたはずです
それが滅びなかったのですから
その部分は
当たらなかったことになります

余計なことを書いてごめんなさい
 m(_ _)m