北条義時 毒殺??? | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



鎌倉の観光スポットの一つ
源頼朝の墓が
建つ場所は
源頼朝の法華堂(墳墓堂)跡ですが
その東側の高台に
北条義時の法華堂跡という
だだっ広いスペースがあります


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ここにかつて
頼朝に勝るとも劣らない
義時の法華堂が存在したのです

この史跡を見た時
僕は
頼朝 義時 両者が
当時の人々にとって
同等に崇敬されていた証のように
感じてしまいました

今は昔 学校の授業では
それほど気にも止めなかった
北条義時が
もしかしたら
物凄い権力者だったのでは?と
今回あらためて
勉強してみたわけです

義時がどんな性格の持ち主で
本心はどうだったかなど
知る由もなく
結局はわからないことだらけ
こんなに興味を示しているのに
振り向いてもくれない感じですw

とりあえず
僕の勉強も大詰め
いよいよ
義時最期の時を迎えますが
ここにきて さらにまた
謎を残してくれています

鎌倉幕府2代執権 北条義時

貞応3年(1224)6月13日
持病の脚気が急激に悪化し
帰らぬ人となったとのこと
享年62

18日に葬儀が執り行われ
上記の場所に埋葬されました
『吾妻鏡』には
「故大将家法華堂 東の山上を以て
墳墓となす」と記されます

権力者の突然すぎる死は
さまざまな憶測を呼んだようです

隠岐配流の後鳥羽院の怨念は
当然のごとく騒がれましたが

3年後(1227)になって
正室(継室)伊賀の方による毒殺
との新証言が登場するのです

義時の死は毒殺???
犯人は伊賀の方???


僕の勝手な妄想では
義時がぞっこんだったと伝わる
姫の前は
源頼朝お手つきのお古を
仕方なくもらい受けたように
感じてしまうのです

比企能員の変により
姫の前と離縁
後妻にめとった伊賀の方こそ
義時の惚れた女だと
考えているのです

その伊賀の方による毒殺とは
どういうことなのでしょうか???



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何度も書く話ですが
源頼朝の姉(または妹)坊門姫は
一条能保の妻です
娘の一人は九条良経に
もう一人の娘 全子は西園寺公経に
それぞれ嫁いでいます

一条能保は他にも妻や妾がいて
その男子の一人で(母は不明)
延暦寺の僧侶となる
尊長(そんちょう)という人物が
その証言者だそうです


尊長は
後鳥羽上皇の側近として
皇室氏寺 法勝寺を任されました
承久の乱前夜には 上皇の命で
義兄弟である西園寺公経の
拉致監禁をしています

幕府軍との戦闘に敗れて逃亡
潜伏を続けましたが
嘉禄3年(1227)逮捕され
抹殺されます(自害とも)

その時の証言のようです

藤原定家の日記『明月記』に
六波羅探題に囚われた尊長が
「義時の妻が義時にのませた薬で
早く俺を殺せ」と叫んだ
と書かれています

義時の死は毒殺???
犯人は伊賀の方???

尊長の証言の
真偽のほどはわかりませんが

さらに厄介なことには
この時すでに
伊賀の方は
伊賀氏の変と呼ばれる
これまた変てこりんな事件で
追放されているんですよ

義時死去に伴う家督相続で
北条がまたしても揉めた事件です

伊賀氏の変について
一般的に言われているのは
義時の正室(後妻)伊賀の方が
自分の生んだ北条政村の執権就任と
娘婿である一条実雅の将軍擁立を
兄の伊賀光宗とともに画策し
政村の烏帽子親でもある
三浦義村にも協力を求めた
というものです

ちなみに
一条実雅というのは
一条能保の子(母はまた別の女性)
だから尊長とは異母兄弟です
のちに実雅は
姉全子の婿である
西園寺公経の猶子となっています

公経と全子との娘の産んだ三寅が
4代将軍になると決まったことで
実雅は
その補佐役として鎌倉に滞在し
義時と伊賀の方との娘を
嫁にもらいましたが
そのおかげで
事件に巻き込まれてしまいます



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北条政子が
伊賀氏の動きを察知
三浦義村を説得し
義時長男の北条泰時を
3代執権に就任させ
伊賀氏の謀略を未然に防いだ
とされています

伊賀の方は伊豆
伊賀光宗は信濃
一条実雅は越前へ配流されます

ただ
この伊賀氏の変
いろんな記述を読みあさってみると
北条政子が一人で
勝手に騒いでいて
伊賀氏側は無実のような気もします

北条政子も
歳を重ねて
ガンコな妄想ババアに
なってしまったのでしょうか?w

もう少し勉強してみます