伊賀氏の変を考えてみる | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです



僕の結論から先に言うと
北条泰時という人間は
とりあえず「いい人」
だったみたいですね  ( ´艸`);

Wikipediaにも
「人格的に優れ人望も厚かった」と
鎌倉期の仏教説話集『沙石集』から
エピソードが取り上げられています


「伊賀氏の変」を考える前に
北条義時の子供たちのおさらい

側室★阿波局
●泰時(1183~1242)
正室★姫の前
●朝時(1193~1245)
●重時(1198~1261)
●竹殿(大江親広妻→土御門定通妻)
側室★伊佐朝政の娘
●有時(1200~70)
正室(継室)★伊賀の方
●政村(1205~73)
●実泰(1208~63)
●時尚(生没年不詳)
●女子(一条実雅妻)
ほかにも女子はいたみたい

参照ブログ●長男次男出生のハテナ

今日のブログも
ほとんど僕の勝手な妄想です
史実とはまるで違う部分があるので
ご了解ください m(_ _)m


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由比若宮(元八幡)


まずは 泰時の実母 阿波局が
単純に「御所に仕える女房」なら
何の問題もないんですよ

だけど これが
義時の姉(または妹)阿波局を指す
てなことを考えてしまったら
それは大変な話
義時はまるで無関係で
実は頼朝と阿波局の子供???
という憶測が生じてしまいます

頼朝は妻政子が頼家懐妊中で
亀の前との浮気と同時期に
阿波局にも手を出したのか?とか
生まれた子供を義時が
もらい受けて育てたのかな?とか
僕は邪推しています

北条時政は
亀の前事件で頼朝の愚行に怒り
一族を率いて伊豆に立ち退いた
とされていますが
亀の前でなく阿波局だとしたら
その怒り方に納得がいくのです

頼朝の泰時に対する寵愛も
尋常じゃありません
元服には烏帽子親となり
「頼時」の名前を授けたことも
なんだかとっても怪しいです

頼朝没後「泰時」に改名する
そのあたりに謎を解く鍵が
隠されているような気がします


余談ですが
時政は泰時のことを
その後も無視していますよね
義時次男の朝時を
一族の後継に考えていたらしいし
もしかしたら
泰時が「江間太郎」を称したのは
「北条」を名乗ることを 時政が
許さなかったのかもしれませんね

二人の確執は根深いもので
のちに「いい人」泰時は
故人となった頼朝 政子 義家には
事あるごとに参詣したのですが
時政の仏事は拒否したそうです

妄想なので気にしないで下さいw


◆◆


義時と姫の前の結婚に移ります

義時の求愛に
全然なびかない姫の前
頼朝の仲介で一緒になれたと
ほのぼのエピソードが伝わります
が、
美貌の女官 姫の前は
確実に頼朝お手つきと
誰もが考えているはずです

今度は妻政子が実朝懐妊中で
朝時も頼朝のご落胤では???
これもまた僕は邪推しています

朝時20歳の時(1212)
将軍実朝の怒りを買い
父義時から義絶された事件
これも伝わる話以上に
もっと奥が深いように思うのです

例えば 何かのきっかけで
朝時が出生の秘密を知ってしまい
実朝にそれを打ち明けたとか
それをネタに男色を迫ったとかw

これは妄想が過ぎました 汗汗汗


◆◆◆


姫の前の子供もう一人
重時は
なかなかの賢者で
のちには才覚を発揮しますが
それは父義時没後のことで
とくに幼少期は不遇だったとか

考えたくはありませんが
ここもまた頼朝ご落胤の可能性
考えられなくもないと思います


◆◆◆◆


有時こそ 不遇も不遇
四男なのに通称六郎と
正室所生の弟たちよりも
序列は下に位置づけられます
庶子の宿命とはいえ
泰時も本来なら庶子なのに
とても気の毒に感じます
やはり その差は
泰時「いい人」だからですかねw


◆◆◆◆◆


比企能員の変(1203)後
義時は姫の前と離縁します
僕の妄想では
仮面夫婦ごっこの終焉です

伊賀の方こそ
義時が惚れて迎えた正室と
僕は信じています

伊賀の方の実家は
俵藤太の流れをくむ武将
蔵人所に仕えた官人の出身で
父親の伊賀朝光は源氏三代に奉公
その葬儀(1215)には
婿 義時も参列したとのことです

長兄の伊賀光季は京都守護職
承久の乱のブログに登場しました
後鳥羽からの討幕の誘いを断り
襲撃され自害しています

そして次兄
政所に執事として勤務していた
伊賀光宗が
伊賀氏の変の首謀者とされますが

謀反を企てるような一族には
どう考えても僕には思えません


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画像はWikipediaより借用


伊賀氏の変の真相

最初に僕が思いついたのは
義時自身が
愛妻伊賀の方との長子である
政村を後継に考えたのでは?
という仮説ですが
あちゃー
どうもそれはないらしいです 汗

けれども
当時の社会における
正室(後家)の地位はかなり高く
義時の家督相続について
伊賀の方が
嫡子泰時と争うことも
可能だったと思われます

ところが
伊賀の方や伊賀一族は
泰時の嫡子を認めていて
何の不満もなかったようです

要するに 結論として
泰時「いい人」は
誰もが認めるところだったのです

例えば
義時の葬儀の際の序列も
泰時は京都なので不在ですが
朝時、重時の下に
政村、実泰が位置しています
伊賀の方が自分の子供を
後継にしようと企むならば
ここで意思表示していたでしょう

伊賀の方や伊賀一族に
これっぽっちの野望も
感じさせる気配はないのです

ついでに
執権就任については
幕府の決定事項で別問題ですが
少なくとも
義時の家督相続については
北条政子に
口を挟む権限はありませんので
あしからず ぷんぷん


◇◇


次に「裏切り」にかけて
毎度お馴染みの三浦義村

義村はたしかに
政村の烏帽子親です
もしも義時から個人的遺言で
後継は政村と頼まれていたのなら
そのように動いたでしょう

しかし
泰時が家督を継いで
何の問題もないどころか
ずっと義村はそのつもりでした

娘を泰時に嫁がせましたし
この時は離縁してましたけど 汗
孫はちゃんと産んであるから
ゆくゆくは泰時の後継ですし
それも早逝しちゃうんですけど 汗

そのほか理由はたくさんw
三浦義村の本音は
「いい人」泰時に
すんなり後を継いで欲しかった
と推測します


◇◇◇


義時急死の報を受け
京の六波羅探題から戻った
北条泰時は
すぐに鎌倉へは入らず
自分はいったん伊豆にとどまり
叔父の時房を先行させています

自分が不在中の鎌倉の動向を
確認したかったのでしょう

自分は嫡男とはいっても
元々は庶子の負い目があり
伊賀の方とその子供たちのこと
やはり少しは不安だったはずです

叔父時房からの報告を受け
その心配が無用と判断し
堂々の鎌倉入りとなりました

伊賀氏の謀反が
政子の妄想であることは明白
ただ
自らの3代執権就任にあたり
政子の力添えは必要だったし
それを排除することは
難しかったのかもしれません

自分自身が一番かわいい

どこが「いい人」なんでしょ???


◇◇◇◇


というわけで

僕の憶測では
伊賀氏の変とは
政争というより
北条政子と伊賀の方の
「おんなの戦い」
だったように思います

あわれ負け組 伊賀の方は
配流先の伊豆で幽閉されたまま
その年の暮れ亡くなっています

翌年(1225)政子が卒去
首謀者とされた伊賀光宗は
晴れて政務に復帰をはたしますが
とんだとばっちりの
一条実雅は
配流先の越前国で変死しています

泰時の「いい人」は
数々の犠牲の上に成り立っている
そんな結論が導き出されます 汗汗汗

いつもながら
勝手な妄想ばかりでごめんなさい
m(_ _)m