ライブの疲れで
今日は出かけなかったので
先月末に歩いた
隼町(はやぶさちょう)のことを
ちょっと書いてみようと思います
o(^-^)o
千代田区散歩のつづき
紀尾井町(きおいちょう)
平河町(ひらかわちょう)
その東側にあるのが隼町です

隼町の東端は内堀通り
江戸城内濠の桜田濠を挟んで
皇居が見渡せます
北端のFM東京通りにあった
千代田区町名由来板を
まずはコピーします

>説明文コピー
江戸城内堀に面したこの界隈には、徳川家康が江戸にやってきた当初、鷹匠たちの屋敷がありました。鷹匠とは、タカやハヤブサを飼育し、鳥や小動物を捕らえるよう訓練する専門家のことです。つまり、隼という町名は、鷹匠の屋敷があったことに由来しているのです。
江戸時代、このあたりには、播磨明石藩松平家や、三河田原藩三宅家などの武家屋敷や、火消役屋敷がありました。
田原藩の家老となり、画家・思想家としても名高い渡辺崋山も、この地に生まれ、生涯の大部分を過ごしました。
元禄年間(1688~1704)麹町通りに面した町屋裏の武家地(現・麹町1丁目5番地及び7番地)は町人地となり、麹町隼町 と呼ばれていました。それが、明治5年(1872)麹町1丁目に含まれることになったため、南側の武家地だったこの一帯に、由緒ある「隼町」という町名が付けられることになったのです。
明治以降、町内には陸軍の施設であった教育総監部、東京衛戍(えいじゅ)病院、航空本部などが立ち並び、隼町は軍と関係の深い土地になりました。
そんな隼町に、昭和41年(1966)日本の伝統芸能の保存と振興のために国立劇場が開場しました。同47年(1972)その隣に最高裁判所が建ち、また同54年(1979)には、国立劇場敷内に国立演芸場が開場しました。国立劇場および演芸場は、歌舞伎・文楽や落語・講談などの伝統芸能の公開、調査研究を目的とした施設です。

安政3年の地図を見ると…
現在の
FM東京(麹町1-7)
銭湯バン・ドゥーシュ(麹町1-5)
がある所に
「麹町隼町」と書かれています
その南側は武家地です
江戸時代
武家地には町名はつきません
グランドアーク半蔵門というホテル
(現在の住所が隼町1-1)
の所には
「火消役 神保三千次郎」
国立劇場(隼町4-1)には
「播磨明石藩 松平兵部大輔慶憲」
最高裁(隼町4-2)正門あたりには
「三河田原藩 三宅対馬守慶保」
と書かれています
最高裁前の内堀通りは坂道で
三宅坂(みやけざか)と呼ばれますが
この三宅家屋敷に由来しています
明治になり
本来の隼町は
麹町山元町に吸収され
現在は麹町1丁目となりました
その南側の武家地が
明治5年(1872)
新たに隼町と命名されたようです
現在の隼町町域の3分の2
およそ3万坪の土地は
明治大正時代
陸軍の病院だったそうです
この東京衛戌病院は
昭和4年(1929)に
新宿区戸山に移転し
戦後は国立東京第一病院と改称
これが現在ある
国立国際医療センター
になったみたいです

隼町のまわりを一周しました
その写真を無造作に並べます
西端
平河町との境
半蔵門駅通りを
北から南へ歩きました

派手なラーメン屋を過ぎると
最高裁の建物が現れます


隼町の南端
青山通り(国道246号線)沿いは
ずっと
最高裁の囲いが続きます

石垣がいつの時代のものか
まだ調べていませんが、
最高裁の建物の外観からして
さながら砦のようです

三宅坂交差点の角に
テラス状の公園があります
ここには
渡辺崋山の説明板がありました
次のブログに書くことにします
三宅坂を北へ上ると

最高裁正面(たぶんw)

守衛がいっぱいいるので
さっさと通り過ぎましたw


三宅坂を振り返ると↑こんな感じ
次は国立劇場ですが、
その前に横断歩道を渡って
桜田濠を眺めてみました

内堀通りを挟んでの国立劇場


国立劇場の隣(北側)に
グランドアーク半蔵門

それを過ぎると
麹町のFM東京
グランドアークホテル入口は
FM東京通り沿いにあります

ざっと写真だけを並べてみました
今日は時間がないので(汗)
明日以降に中身を書きます orz.