散歩ブログです
今は 九段の町を歩いています
九段は東西に長い町です
住居表示は
靖国通りをはさんで
北側に
千代田区九段北1~4丁目
南側に
千代田区九段南1~4丁目
どちらも
東から西に1丁目~4丁目が並びます
◇◇◇
九段の東端には日本橋川が流れます
日本橋川は
現在では神田川から分流していますが、
これまで見てきた
●三崎橋
●新三崎橋
●あいあい橋
●新川橋
●堀留橋
までの部分は
江戸時代には埋められていました
江戸湊から上ってきた船は
ここで行きどまりとなり
それゆえ
堀留(ほりどめ)の名前がついています
堀留橋
堀留橋から下流(南側)を眺める
それではその続き
下流(南側)に進みましょう (^O^)/
九段北1丁目の東端には
●南堀留橋
●俎橋
九段南1丁目の東端には
●宝田橋
●雉子橋
が架かっています
まず
南堀留橋(みなみほりどめばし)
以北の流路が開削され
再び神田川とつながったのは
明治36年(1903)のようですが
架橋は大震災以後で
この南堀留橋は
昭和3年(1928)完成とのことです
南堀留橋を渡った先
東側は
千代田区西神田
専修大学のキャンパスがあります
で、
橋の手前(西詰)
で、
探していたものは
とあるマンションのエントランスにあり
で、
何度もこのあたりを歩き回って
ようやく発見できました
(ノ*O*);ノ
ふう…
これはねえ
ちょっとやそっとじゃ見つかりません
千代田区のイジワル!って感じですw
>コピー
滝沢馬琴硯の井戸跡
ここは、滝沢馬琴が
寛政5年から文政7年の30年間住まい、
名高い里見八犬伝などの書を
著述したところで、
この奥に当時の井戸があった。
千代田区
●滝沢馬琴宅跡の井戸
(都指定旧跡)
曲亭馬琴(本名・滝沢興邦)
明和4年(1767)~嘉永元年(1848)
寛政5年(1793)27歳の時
師と仰ぐ山東京伝のすすめで
この地で履物商・伊勢屋を営む
会田家の未亡人・百(30歳)の
婿となりますが
商売には興味を示さず
文筆業に打ち込んだそうです
文政7年(1824)58歳で
神田明神下・同朋町に移るまで
ここに暮らしていました
『椿説弓張月』文化4年(1807)~
『南総里見八犬伝』文化11年(1814)~等
多くの読本を発表し名声を築きます
南堀留橋の道は
馬琴旧居跡の前を過ぎ
西へ向かうと
中坂につながります
中坂中腹にある
築土神社の
世継稲荷(田安稲荷)には
馬琴自筆の奉納額ほか
ゆかりの品が遺されていたのですが、
東京大空襲で社殿が全焼した際
ことごとく失われてしまったとのこと
非常に残念です
◇◇◇
余談ですが…
馬琴の墓所は
文京区小日向(茗荷谷の近く)
深光寺にあります
僕が通った中学校から歩いてすぐです
それで
馬琴の名前は
子供の頃から知っていました
それなのに
実は作品を読んだことがありません orz.
『八犬伝』とか
ものすごく興味はあるんですよ
ちょー長編らしいので
そろそろ読み始めないとヤバイです (>_<)