九段坂 | 芳村直樹のブログ

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シャンソン歌手・芳村直樹の自己満足的な東京散歩ブログです




九段(くだん)と言ったら
懐メロの歌詞に
よく登場しますよね

昔は全国区の地名でしたが
今ではどうなんでしょう?

江戸幕府が
傾斜地に九段の石垣を築き
御用達屋敷(九段屋敷)を建てたのが
地名の由来だそうです

靖国通り(都道302号線)
九段坂を歩いてみました (^O^)/



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●九段坂

>説明文コピー
この坂を九段坂といいます。古くは飯田坂ともよびました。『新撰東京名所図会』には「九段坂は、富士見町の通りより、飯田町に下る長坂をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、これを九段長屋といひしより此坂をば九段坂といひしなり。今は斜めに平かなる坂となれるも、もとは石を以て横に階をなすこと九層にして、且つ急峻なりし故に、車馬は通すことなかりし」とかかれています。坂上は、月見の名所としても名高かったようで、1月26日と7月26日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。


☆ポイント1→三日月を見てた (@_@)

花のお江戸の三大月見に
中秋の名月、後の月
そして
二十六夜待ちがあったそうです

前の二つは満月前後の月なので
早い時間から見えるのですが、
二十六夜待ちは
陰暦の正月と7月の26日夜半過ぎ
明け方近くに昇ってくる
細い逆三日月を待ち
飲めや歌えやの宴会をしたそうです

そのうちに正月は寒いので
7月だけの娯楽になったみたいです


***


田安門前の歩道橋に上がってみました

◇九段上方向

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☆ポイント2→富士山が見えた (@_@)

住居表示実施(1966)以前は
このあたりまで富士見町でした
町名がつくからには
ここから富士山が拝めたんでしょう

ちなみに靖国通りの延びる向きは
西南西(時計で8時の方角)です


◇九段下方向

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その昔は急坂だったらしいですが
関東大震災(1923)後の復興事業で
ゆるやかな坂道に変身しています

おお!現代の東京名所が見えますよ!

写真を拡大しますネ (o^-')b

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☆ポイント3→スカイツリーが見える(@_@)

なんだか楽しくなっちゃいますネ!


そうかと思うと
歩道橋の南側には
灯台があるんです

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歩道橋からだと逆光なので
下に降りて見上げてみますw

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●常燈明台(高燈籠)

元々は靖国神社に捧げるお灯明台として
明治4年(1871)に建造されたもので
当初は通りの北側(靖国神社側)にあり
昭和5年(1930)南側に移されたようです

船舶のための灯台としての役目もはたし
品川沖あるいは房総半島の木更津からも
灯が見えたそうです

てことは

☆ポイント4→海まで見えた (@_@)


いろいろ見えて楽しい上に

前のブログに書いたように
とても嬉しい石碑を発見したんです!!


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東京九段ライオンズクラブが
設置した石碑のようです
九段坂を描いた浮世絵と出会えて
ホントありがたや!!です <(__)>


●くだんざか・うしがふち 葛飾北斎

>説明文コピー
北斎は、江戸本所に生まれる。
その作画領域は極めて広く、独特の高い芸術性を示しているが、寛政末頃から亨和頃にかけて西洋画の技法を取り入れた、いくつかの風景版画を描いている。
この画は画題と落款の平仮名文字を横に寝かせて、左書きにし、画面に入れたシリーズの最も代表的なものの一つである。
右側の黄土色の急な坂は九段坂で、かっては九段のゆるやかな段がついていたという。
この坂道に面して石垣と長屋塀の武家屋敷があり、坂道には人や家々などの陰が描かれている。
その左の濃緑色の崖はさらに高く誇張し、画面の左半分は、はるばると遠景を見通す変化に豊んだ斬新な構図となっている。
この画の特徴は樹木や崖に描線を用いず、陰影をつけて立体感を表そうとしているところである。
左の崖は上方が千鳥が淵、下は牛が淵、その中間を左に入る道は田安門に続き、現在は武道館への入り口となっている。
空には夏雲がもくもくと湧き上がっていて、すべてが目新しい西洋風の写生的空間表現となっている。

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なんとも興味深い浮世絵ですね (゚_゚

北斎の画では
九段の段になっていません
そのあたりの事情はわかりませんが
多少は誇張表現だったとしても
当時は難儀な急坂だったことが
伝わってきます

千鳥ヶ淵、田安門橋、
そして牛ヶ淵との位置関係が
現在と変わらないのも嬉しいです


***


牛ヶ淵の名前の由来ですが、

『江戸名勝志』に
「昔此処へ銭積みたる牛車落ちて
 その牛死せしよりの名といふ」
との記述があるそうです

元飯田町に住んでいた
滝沢馬琴は
「牛淵は車牛の堕ちたれば名とすといふ
 さる故にや
 今も九段坂は車を牽くことを禁ぜらる」
と随筆に書いているそうです


あ、そうそう
先日もブログに書いた
角川本社に勤める知人が
「関東大震災以前の九段坂は
 荷車を後ろから押す
 押屋(おしや)という商売が
 あったらしいよ」
と教えてくれました

今のゆるやかな坂道からは
考えられない昔話ですよね

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次のブログでは
滝沢馬琴の旧居跡を紹介します (^_-)-☆