下関要塞火ノ山砲台の跡地は戦後に公園化され、昭和31年(1956)7月に「火の山公園」として開園しました。開園後はロープウエイ(1958年開業)や回転レストランを持つ展望台(1973年建設、2016年営業終了、解体済み)などが整備されて賑わいを見せましたが、近年は観光地として低迷しています。

そこで下関市は、火の山再生に向けての再編整備計画「光の山プロジェクト」を令和5年度(2023年度)より始動しました。ロープウエイに代わるパルスゴンドラ、リング状の展望デッキ、アスレチックやキャンプ場など整備項目は盛りたくさんで、数年かけて進めていくとのことです。気になる砲台の遺構ですが、壊さずに残置するようですのでひとまずホッとしています。

 

さて今回、再整備プロジェクトの一環として「火ノ山第一砲台」の発掘調査が行われました。平成期に2回ほど部分的に調査をしていますが、本格的に掘ったのは初めてではないかと思われます。

今回の発掘調査では、砲台の主要部分となる砲床や砲側庫の遺構が確認されました。なかなか貴重な遺構ですが、8月中に調査を終えて早々に埋め戻されましたので、残念ながらもう遺構を見ることはできません。ですが調査中にしっかり見て来ましたので、考察を交えながらレポートを書いていきます。

 

---- レポートは全3回です -----

◎その1(本記事):第一砲台の詳細と発掘した遺構の紹介

◎その2:砲床の考察

◎その3:砲側庫の考察

 

火ノ山砲台の全体の概略ならびに第一砲台の履歴は以下の記事をご確認下さい。

「下関要塞探訪68 ~火ノ山砲台 【概略】」(2021年9月29日執筆) 

「下関要塞探訪75 ~火ノ山 第一砲台」(2021年10月6日執筆)

「明治期の下関要塞 ~概略」(2022年9月23日書き直し)

 

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火ノ山第一砲台は、明治24年(1889)2月に竣工した二十八糎榴弾砲4門を有する砲台です。射撃の首線は真東で、周防灘方面から下関海峡に侵入せんとする敵艦を遠方で撃退することが主任務でしたが、早鞆ノ瀬戸を通過して下関港に闖入された際は火砲の方向を変えて追撃する手はずとなっていました。

 

写真で示すとこんな感じです。

 

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二十八糎榴弾砲(以下“28H”)の備砲完了は『日本築城史』によると明治25年6月となっていますが、明治24年12月の射撃演習時に第一砲台の第一・第二砲車の28Hが破損したことを報告する当時の文書が残っていますので、竣工後早々に備砲されていたのかもしれません。

なお火ノ山砲台は大正期の要塞整理で廃止となりましたが、火砲は大東亜戦争開戦前年の昭和15年(1940)1月に撤去されるまで据え付けられていました。

 

二十八糎榴弾砲はこちらです。

 

28Hは明治期の要塞における主力砲で、国内の堡塁砲台45か所に配備されました。射程距離は短かったものの大口径の巨弾の威力は絶大で、日本沿岸に現れる敵艦に睨みを利かせました。結果的に“撃たずの砲台”で終わりましたが、日露戦争時には18門が中国大陸に送られて旅順要塞攻略に貢献しました。

 

上記写真は愛媛県今治市小島に展示されているレプリカですが、2009年から3年間に亘ってNHKで放送されたドラマ「坂の上の雲」の撮影で製作されました。ちなみに同ドラマは本年9月から再放送が始まっています。

 

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火ノ山砲台は4つの砲台で構成されていますが、第一砲台は4つの中で一番低い位置(砲座標高228.5m)に築城されました。現在の第一砲台跡地には高架の遊歩道やロープウエイ駅が設けられているため、地上で確認できる遺構は何もありません。

 

第二砲台観測所(公園展望所、現在は解体)から見た第一砲台跡地です。(第二砲台の砲座標高は258m)

 

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それでは発掘された遺構を紹介しますが、まずはロープウェイ駅の屋上から見下ろします。

 

1枚目。

 

2枚目。

 

見取図を掲載します。

 

今回の発掘調査で確認されたのは砲床、砲側庫、排水溝、土管です。

写真1枚目の円形に窪む部分が28Hを据え付けた砲床です。2門1砲座で構成されていましたので、写真1枚目の右から第一砲座の第一砲床と第二砲床、第一号砲側庫を挟んで第二砲座の第三砲床が確認できます。見取図と同様に横一線に並んでいるのが見て取れます。

なお調査は現施設を破壊することなく進められましたが、もし掘り進めていれば第四砲床や第二号砲側庫も確認できたかもしれませんね。

 

おそらく看板の真下に第四砲床が埋もれているはず...。

 

こう言うことね。

 

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では近くで見てみます。

 

第一砲座の第一及び第二砲床です。胸墻のある側が砲座前面となります。

 

右斜め前から見ています。

 

砲座は全体がコンクリートで出来ています。8月10日に開催された現地説明会の資料から引用させて頂くと、「岩盤を主体とした基盤層を平坦に造成し、そのうえに礫を混ぜた灰白色の良質なコンクリートを20㎝の厚さでじか打ちし、表面はモルタル仕上げで施工しています。」と書かれています。

 

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左側面より。

 

胸墻と排水溝をヨリで。

 

この位置に排水溝が設けられているのは他地域の28H砲座でも見られますが、気になるのは胸墻の造りです。見た感じでは無筋コンクリート・モルタル塗りですが、これまで見てきた28H砲座の胸墻のほとんどが煉瓦もしくは石積みですので非常に違和感を感じます。

ただ、発掘された胸墻は上面が破壊されていますので、この状態で胸の高さまで壁状に立っていたかどうかは不明です。もしかしたらコレは基礎部分で、この上にレンガや石材を積んでいたのかもしれません。

28Hは間接照準での射撃が多いですが、火ノ山第一砲台は直接照準式で尚且つ砲座の位置は高所に設けられましたので、下記写真の田倉崎や大久野島のように高い胸墻ではなかったと推測します。

それを裏付ける史料として、明治40年の文書に「砲身が曝露しているので目視を避けるため茶褐色に塗装を変更したい」と言う伺い書があります。飛行機の登場前でしたので地上・海上から見えていたと言うことになりますが、そう考えると胸墻は低かったと言えるのではないでしょうか。

 

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それでは、参考に他地域の28H砲座を掲載します。

 

由良要塞田倉崎堡塁:煉瓦と花崗岩のコラボ。高めの盛土で胸墻と横墻を形成。

 

◎由良要塞深山第一砲台:煉瓦+盛土

 

◎広島湾要塞三高山堡塁:石造りの胸墻、盛土無し

 

◎芸予要塞大久野島中部堡塁:石積み+盛土部分をモルタルで被覆

 

◎広島湾要塞早瀬第一堡塁:他では見たことがないコンクリート胸墻(モルタル塗り)

 

◎火ノ山第四砲台:同じ火ノ山ですが、こちらは石積みの上に煉瓦を置くスタイル

 

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次は真正面から見てみます。

 

目の錯覚かもしれませんが、なんとなく南側(写真左側)に傾いているような気がします。ただ、砲床の傾きは当時も問題になっており、竣工から24年経った大正4年(1915)の文書には、「第一砲台砲床木材ノ現況ハ比較的良好ナルモ砲床ノ傾度四十分以上ニ達シアルヨリ考フレバ木材ノ関係ニアラズシテ基礎沈降ニ原因スルモノト推定セラル」と書かれています。

 

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第一砲床です。

 

第二砲床を前方から。

 

全体は露出されていませんが、他地域の砲台に残る28Hの砲床と同様に円形であることが窺えます。また砲床内側には段差が設けられているのが基本ですが、発掘された砲床にもその痕跡が残っています。

さらに特筆すべきは砲床の底部が露出していることです。これまで数多くの28Hの砲床を見てきましたが、底部が確認できるのはココだけですので大変貴重と言えます。

 

現存する砲床のほとんどがこんな感じなので。(対馬要塞姫神山砲台)

 

それと、現存する砲床は上記写真のように花崗岩で縁取られている物がほとんどですが、火ノ山の発掘砲床にはソレが見られません。この点を含めて疑問がいくつかありますので、砲床の詳細は次回取り上げます。

 

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次は第二砲座の第三砲床です。

 

第三砲床も全体は露出されていませんが直径は測れます。説明会資料には「5.4m」と書かれています。

 

ちょっとヒキで前方から見てみます。

 

砲座の内側に排水溝のラインが見られます。いわゆる暗渠ですね。第一砲座にも見られましたが、第二砲座後方から見てみるとこんな感じです。

 

写真を見ても分かる通り、排水溝は砲座内側に向けて斜めに屈曲しており段差も設けられています。これは見取図で示した形状と合致しますので、冒頭の見取図から第二砲座を拡大して見てみることにします。

 

排水溝のラインや砲側庫の位置から推察すると、砲座は砲側庫の床面から一段高い場所に置かれていたようです。おそらくスロープになっていたのでしょう。階段も付けられていたかもしれません。

スロープ付きの一段高い砲座は他地域の砲台でも見られる構造ですが、それは加農砲の砲座に多く、現存する28H砲座ではあまりおみかけしないんですよね。以下、他地域の例を示します。

 

◎対馬要塞大石浦砲台:スロープのコンクリート床が残る28H砲座

 

◎対馬要塞芋崎砲台:両サイドにスロープ

 

 

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砲座(砲床)の紹介は終えるとして、次は砲側庫を見て行きます。

 

第一砲座と第二砲座の間に第一号砲側庫があります。

 

砲側庫は弾火薬を置く掩蔽部ですが、写真は出入口のある前方から撮影しています。入口は見えませんが左側の窓枠がはっきり分かります。天井はアーチ状になっていましたが、ご覧の通り破壊されています。

 

窓枠周囲の壁は意外にも石積みでした。第一砲台と同じく28H4門を擁する第二砲台には第三号砲側庫が現存していますが、てっきり第一砲台の砲側庫も第三号(レンガ積みモルタル塗り)と同型かと思っていました。まさか第四砲台の掩蔽部と同じ感じだったとは...。このことについては「その3」で詳しく書くことにします。

 

参考までに第四砲台の掩蔽部。

 

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なお「第一号」と書いたのはあくまで推測です。火ノ山砲台の砲側庫には番号が付与(入口上部の御影石に刻印)されており、第三号と第九から十三号が現存しています。

第二砲台右翼側に「第三号」が現存していますので、第一砲台には「第一号」と「第二号」が存在したと思われます。発掘された砲側庫は右翼側でしたので、「第一号」だと推測しました。

 

見取図で示すとこんな感じです。

 

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第一号砲側庫を左斜め後ろより。

 

砲側庫周囲に土管が露出されています。最初はこれも砲台の遺構かと思いましたが、砲側庫外側の高い位置にあること、土管内部にケーブルが入っていることなどから、遺構ではなく戦後物だと推測しています。

ちなみに排水用の土管は砲側庫外壁の基礎付近に設けられているようです。見ることができませんが、説明会資料には「外壁周囲の基礎付近には排水用の半裁された土管が「コ」の字形に廻らされ、上部には50㎝もの厚さで礫を置いています。」と書かれています。

 

おそらく深く掘られた外壁部分の下に土管があるのかと。

 

なお砲側庫外側の土管は、平成19年(2007)の発掘調査でも確認されています。その時の調査報告書には、「壁の外周下端には、幅24㎝、長さ60㎝の半裁土管をモルタルで繋いだ溝が巡る。溝の中および上部は、厚さ70㎝に渡って拳大の亜角礫が埋められており、暗渠排水溝と考えられる。」と結論付けています。

 

『下関市埋蔵文化財年報 2』より写真を引用させて頂きます。

 

 

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ところで、発掘調査は平成22年(2010)にも行われていますが、この時は豪雨による園路陥没で遺構が現れたので記録を取ったものです。

 

3年前のブログ記事でも触れましたが、確認されたのは掩蔽壕の中の貯水槽です。おそらく下関要塞笹尾山砲台に現存する貯水所と同じ物が置かれていたのではないかと思われます。

 

『下関市埋蔵文化財年報 4』より引用させて頂きます。

 

 

笹尾山砲台の貯水所入口。

 

内部には半円の貯水槽。

 

参考リンク:

 

 

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「その1」の最後に、埋め戻された跡も掲載しておきます。

 

きれいさっぱり...

 

瓦礫がポツン...

 

第一砲台さん、またいつか会いましょう(・∀・)

 

 

以上、「その1」はお終いです。次回は砲床を考察します。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「日本陸軍の火砲 要塞砲」(佐山二郎著、光人社NF文庫)

「日本陸軍の火砲 要塞砲」(佐山二郎著、光人社NF文庫)

「日本の大砲」(佐山二郎・竹内昭共著、出版協同社)

「火ノ山砲台跡確認調査 現地説明会資料」(令和6年8月10日開催)

「下関市埋蔵文化財年報2 平成19年度(2007年)の記録」(下関市教育委員会 2009.3)

「下関市埋蔵文化財年報4 平成21年度(2009年)・平成22年度(2010年)の記録」(下関市教育委員会 2011.8)

「赤間ヶ関要塞砲兵射撃演習中砲車破壊景況報告」(Ref No.C10060649300 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「破損備砲交換据付の件」(Ref No.C06081547400 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「11月30日 軍務局 二八珊米榴弾砲制式被定」(Ref No.C08070386200 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「28珊榴弾砲塗色変更の件」(Ref No.C07072223600 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「備砲砲床改築の件」(Ref No.C03022414000 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「」(Ref No. 国立公文書館アジア歴史資料センター)

「日露戦史写真帖 : 附・戦地一般図 上巻 」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)