下関要塞龍司山(りょうじさん)堡塁は4年前の初訪問以来10回以上訪れていますが、堡塁自体の遺構確認と言うよりは、周囲を囲んでいた要塞地帯標探しがメインでした。紹介記事は2020年6月に書きましたが、今回はより詳しく書き直しを行います。

 

要塞の全体図で場所を確認します。

 

龍司山堡塁は、陸正面防御の堡塁として火の山北方に位置する霊鷲山(りょうじゅせん、標高288m)の山頂に築城されました。

『現代本邦築城史』に書かれた本堡塁の任務は、「堡塁一般の首線を伊倉村方向に置き、其の兵備を以て火ノ山砲台の背後及一里山、戦場ヶ野堡塁を援助し且綾羅木川の河孟を射撃し十二糎加農の内少なくとも二門は豊浦方向を射撃し得るを要す」となっています。

 

地図で示すとこんな感じです。

 

***********************************

龍司山堡塁の簡単な履歴です。

◆起工:明治30年(1897)11月4日

◆竣工:明治33年(1900)3月3日

◆備砲:斯加式十二糎速射加農 6門、十五糎臼砲 2門、九糎臼砲 4門、機関砲 4門 

◆備砲完了:十二糎速射加農、明治36年2月完了

◆砲座標高:283m/285m

◆除籍までの経過:

・大正3年(1914)4月24日、廃止の予定となる

・昭和9年(1933)6月、十二糎速射加農を撤去

・昭和10年(1933)3月12日、防御営造物より全部除籍

※明治期の下関要塞の概略はこちら→→→

※訪問:初回/2020年2月、最新/2024年3月

 

明治37-38年(1904-05)の日露戦争では下関要塞に警急配備が下令されましたが、戦勝後は沿岸防御の見直し機運が高まり、大正期に入ると既存の堡塁砲台の廃止が進みました。龍司山堡塁は大正3年(1914)に廃止予定の堡塁となり、昭和期に防御営造物から除籍となりました。

 

◎関連記事:龍司山堡塁を囲む第一区要塞地帯標柱は5本中4本が現存しています。

 

=============

見取図を描きましたので掲載します。

 

龍司山堡塁は多角形の独立閉鎖堡です。外壕と圍壁および両翼の凸角に側防穹窖を設けて敵の侵入に備えていました。

備砲については、明治28年の建設計画時は二十七糎加農2門と移動式十二糎加農4門を配備する予定でしたが、敵上陸兵に対して快速な射撃を行うために固定式の十二糎速射加農6門に変更するとともに、隠蔽地を射撃する臼砲と近接防御の機関砲を合わせて配備しました。なお見取図には1砲座に2門ずつ置いたように描きましたが、あくまで推測となります。

 

堡塁跡地は戦後に公園として整備されたため砲座周辺を中心に遺構の多くが消滅しました。ただ、外壕や圍壁の2/3は現存していますので閉鎖堡の形状は把握することができますし、側防穹窖の銃眼が確認できるのは大変貴重です。

 

******************************

龍司山堡塁の築かれた霊鷲山には以下の4か所からアクセスできます。

 

①火ノ山中腹から舗装されたハイキングコースを辿る

②火ノ山山頂から下ってハイキングコースに合流

③高畑集落から登山道を歩いてハイキングコースに合流

④勝山集落から旧登山道を辿る

 

①と②が基本的な行き方です。ハイキングコースは緩斜面の舗装路ですので楽に歩けますが、4㎞ほどの距離を歩かないといけないので1時間ほどかかります。②の方が若干距離を短縮できますが、帰りは火ノ山山頂への激急登遊歩道が待っていますので、①を選択するのが無難だと思われます。

 

下りたことを後悔する激急登遊歩道の上り。

 

①のハイキングコースの入口はこちら。

 

火の山だけでなく霊鷲山も含めて火の山公園となっています。

 

火の山の立体駐車場から霊鷲山を望む。

 

霊鷲山の展望所から火の山を望む。

 

==============

①のハイキングコースは元軍道ですので、道沿いには陸軍境界標が数多く残っています。続々と現れる標石にときめきながら歩けますが、さすがに1時間も歩くと飽きてきます(^^;

 

地図に確認した境界標をマークしましたが、探せばもっとあるでしょうね。

 

赤の実線が①のハイキングコース、点線が②の火ノ山から下る遊歩道です。なお軍道と境界標のレポートは別項で書くつもりですので、写真は以下の2枚だけ掲載します。

 

頭頂部に“M”と彫られた境界標。

 

防四六。

 

****************************

ハイキングコースを辿ること約50分で、堡塁後方に置かれた補助建造物の場所に到着します。

 

先ほど掲載した見取図から補助建造物の場所を拡大したのがこちら。

 

現地には建物基礎と瓦礫しか残っていませんが、4つの建物と井戸が存在したことを確認しました。史料には2つの兵舎があったことが記載されていますので、4つの建物のうち2つを兵舎、残り2つを烹炊所と監守衛舎だと推測しました。

ちなみに堡塁内には棲息掩蔽部が設けられていましたのでわざわざ兵舎を構築する必要が無いのでは?と思いましたが、史料には掩蔽部では手狭で尚且つ集落より遠く離れた山の中なので兵舎が必要であると記載されています。なお30坪の広さを持つ第一兵舎と第二兵舎は明治35年7月に竣功しました。

 

===========

舗装路から山側に少し上がると第二兵舎の平坦地があります。

 

第二兵舎の建物基礎です。

 

床下の束石など瓦礫が転がっています。

 

==============

第二兵舎北側の一段高くなった所に第一兵舎があります。束石が一定間隔で2列に並んでおり、横長の建物だったことが窺えます

 

束石の外側に梁間方向の建物基礎が確認できます。

 

が散乱しています。瓦葺屋根を持つ木造の兵舎だったのでしょう。

 

兵舎脇に排水溝が設けられています。

 

===============

第一兵舎から東に進むと烹炊所です。兵舎の平坦地と比べると、レンガ、石材、瓶など色々な瓦礫が転がっています。

 

特に目を引いたのはコレ。マカロンです(笑)

 

SAKURA BEERと刻印されたビール瓶です。

 

桜のエンブレム。

 

サクラビールは1913年(大正2年)に帝国麦酒株式会社が販売を開始したブランドで、工場は北九州市門司にありました。帝国麦酒は1929年(昭和4年)に桜麦酒株式会社と社名を変更しましたが、戦時中の1943年(昭和18年)には大日本麦酒株式会社に合併されました。

 

烹炊所の東側に階段が設けられていますが、上がった先は何もありませんでした。

 

================

舗装路を挟んで反対側の平坦地。監守衛舎があったと推測している場所です。

 

この平坦地の瓦礫はレンガやコンクリートが他と比べて多めですので、これまでの兵舎や烹炊所と異なるタイプの建物があったようです。

 

==========

監守衛舎の平坦地から谷側に目をやると井戸が見えたので行ってみます。

 

堀井戸です。

 

井戸の横に石柱が2本立っています。井戸の上に木製の屋根があってその支柱だったのかもしれません。

 

================

補助建設物は以上ですが、気になる窪地が兵舎地から上がった堡塁手前にありますので行ってみます。

 

大きく凹んだ用途不明の窪地です。

 

中に平たいコンクリートの残骸がいくつか見られます。

 

L字型に曲がっています。角っこ部分のようです。

 

写真をよく見てみると長方形に窪んでいることが分かりました。

 

貯水槽?と見取図には記しましたが、こんな所に置く必要があるのかなと。そもそもコンクリートの瓦礫が明治物っぽくない気がしますが、はて。

 

以上、ここでその1を終わります。その2では堡塁内の掩蔽部を紹介します。

 

==========================

[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭, 佐山二郎 共著、出版協同社)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

「竜司山堡塁砲座改築等の件」(Ref No.C02030462300 アジア歴史史料センター)

「砲兵第1工兵方面より 新司山保塁備砲変更の件」(Ref No.C03023050600 アジア歴史史料センター)

「工兵第3方面より 就司山堡塁建築の件」(Ref No.C03023080800 アジア歴史史料センター)

「第12師団 下関要塞検閲報告の件」(Ref No.C03022890500 アジア歴史史料センター)

「元防禦営造物補助建物管轄換の件」(Ref No.C01002118400 アジア歴史史料センター)

「9月10日 築城部本部 竜司山兵舎建築の件」(Ref No.C10071286200 アジア歴史史料センター)

「下関要塞司令官の検閲報告の件」(Ref No.C02030339700 アジア歴史史料センター)

「7月15日 築城部本部 下ノ関要塞龍司山兵舎等建築竣工図書進達」(Ref No.C10071521700 アジア歴史史料センター)

「海岸射撃具据付工事及火砲撤去工事完了の件」(Ref No.C01007469500 アジア歴史史料センター)

「紀淡海峡及下関防禦計画中改正の件」(Ref No.C03023051400 アジア歴史史料センター)