今日は富野(とみの)堡塁の記事を4年ぶりに書き直します。

 

下関要塞の全体図で場所を確認します。

 

富野堡塁陸正面防御の堡塁として明治28年(1895)10月に築城されました。

小倉市街地方面から攻めてくる敵上陸兵を撃退するとともに、田向山砲台と笹尾山砲台を守る役目を担っていました。なお『現代本邦築城史』では、「一般首線の方向は九十度に向かわしむ 而してその目的は西北方及び西南方より来る敵を防御し 而して専ら長崎街道及香春街道を縦射し且つ笹尾山、武蔵山の砲台を援護するに在り」と書かれています。ちなみに“武蔵山”は田向山の別名です。

 

地図で示すとこんな感じです。

 

小倉城北側の紫川に架かる常盤橋を始点(終点)として、長崎市から伸びる長崎街道と福岡県朝倉市から伸びる秋月街道(香春街道は別名)が整備されていました。富野堡塁ではこれら街道を利用して侵入する敵兵の撃退が主任務でしたが、堡塁北側にも砲座が設けられていたようですので、街道を抜けてさらに東方に侵入された場合には、射線を北に転じて追撃することになっていたと思われます。

 

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富野堡塁の簡単な履歴です。

◆起工:明治26年(1893)3月9日

◆竣工:明治28年(1895)10月30日

◆備砲:十五糎臼砲 2門、十二糎加農 8門、機関砲 4門 

◆砲座標高:96.60m/98.60m

◆除籍までの経過:

・大正2年(1913) 廃止の予定となる

・昭和7年(1932)3月23日 防御営造物全部除籍

※明治期の下関要塞の概略はこちら→→→

※訪問:初回/2020年4月、最新/2024年1月

 

明治37-38年(1904-05)の日露戦争では下関要塞に警急配備が下令されました。堡塁砲台は射撃準備を整えるとともに、下関要塞砲兵連隊は徒歩砲兵第三連隊を編成して中国大陸に渡り、旅順攻囲戦など各地の戦闘に参加しました。

富野堡塁が戦闘配置に就いたかどうかは不明ですが、史料では備砲の十五糎臼砲2門が徒歩砲兵連隊の装備として戦闘に使用されたことが書かれています。

 

十五糎臼砲の現物です。

 

山口県萩市の明倫学舎に展示されています。以下参考記事です。

 

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明治38年(1905)9月の日露戦勝後は沿岸防御の見直し機運が高まり、大正期に入ると既存の堡塁砲台の廃止が決定されていきました。田向山砲台と笹尾山砲台が大正2年(1913)に廃止の方向となったことで富野堡塁の存在価値も無くなり、2砲台と同じ年に廃止予定の堡塁となりました。(防御営造物から除籍となったのは昭和7年)

 

さて廃止予定となった富野堡塁ですが、史料を検索すると、大正10年(1921)に第十二師団隷下の工兵第十二大隊が富野堡塁を作業場として使用することを申請して認可されたようです。ただ、工兵第十二大隊は第十二師団の久留米移駐に伴い大正14年(1925)に廃止されましたので、使用期間は短かったと推察されます。

 

ちなみに、工兵第十二大隊の屯営地は現在の小倉南区北方にありました。

 

屯営地の東方に「工兵第十二大隊」のキーストーンを掲げた隧道が現存しています。

 

キーストーンをヨリで。

 

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堡塁は現在の小倉北区小文字に構築されました。見取図を掲載します。

 

移動式の十二糎加農8門の4砲座が西側を向いて配置されていましたが、『日本築城史』では、「第1砲座火砲がSW80度、第2砲座は火砲がSW70度、第3砲座火砲が60度、第4砲座火砲が50度と、10度ずつの変化を与えるように構築...」と書かれています。なお十五糎臼砲2門は北側の砲座に置かれたと思われますが、街道を抜けて北方に敵が侵入した場合は、加農砲や機関砲もこちらに転移して追撃したと推察されます。

 

下関要塞火ノ山第四砲台と同じ備砲ですので、同地の説明看板を掲載します。

 

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戦後の堡塁跡地にはホテル望玄荘が建築されました。ホテルは国民宿舎となったのち老人ホームに改装されて今に至っていますが、周囲は足立公園として整備されましたので砲座をはじめ多くの遺構が失われました。現存するのは7連の棲息掩蔽部と用途不明の掩蔽部が1つとなります。

 

富野堡塁跡地を北側から見ています。標高90mの稜線突角に老人ホームの高層建物が建っていますので、遠くからでも結構目立ちます。

 

関門海峡を挟んで対岸下関の田ノ首砲台跡地からも確認できます。

 

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それでは現地に向かいます。

見取図Aの場所には監守衛舎が置かれていたと思われますが、現在は企業の駐車場になっています。その場所を過ぎて舗装された元軍道を上がると、見取図Bの位置に到達します。

 

現在は広場になっていますが、当時は横長の兵舎2棟が置かれていました。史料では2棟とも桁行12間(約22m)、梁間3間(約5m)の大きさの兵舎でしたが、大正7年に解体され奄美大島の砲台建設資材となったようです。

 

見取図Bの山側に陸軍境界標と思しき石柱があります。近づいて確認したいところでしたが、周辺はジョキングや散歩のメッカになっているので止めました。間違いなく怪しまれますので(^^;

 

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見取図Bの兵舎地から堡塁内に向かう軍道が伸びています。舗装されていますが当時の石垣が残っています。

 

軍道は辿らずに左手に設けられている遊歩道の階段を上がります。そして階段から逸れるとすぐに見取図Cの場所となります。

 

この場所は堡塁左後方にあたり、当時あった土塁の上から見下ろしています。なお眼下には建物が置かれていたようですが、崩落と藪で痕跡は確認できませんでした。

 

土塁に昇降する石段が残っています。

 

石段を下りた場所は残念ながらこんな感じ。

 

石段を下りて北に歩くと広めのスペース、見取図Dの場所となります。

 

土塁に上がる石段2つ目。なお石垣の内側にはがあったようですが、富野堡塁が廃止予定となったことで大正7年に金比羅堡塁に移設されました。

 

ちなみにもう少し北側に3つ目の石段があります。

 

2つ目の石段を上がって堡塁前方となる西側を見ています。

 

上段の石垣。

 

下段の石垣。

 

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石垣沿いを進むと棲息掩蔽部が並ぶ見取図Eの広場がありますが、掩蔽部左脇に石段が設けられています。

 

では上がります。

 

石段は屈折して背墻上部に伸びていますが藪で先には進めず。仮に進んでも公園広場となっていますので怪しまれるだけですw

 

背墻上部と加農砲座が置かれていた場所を見ています。

 

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棲息掩蔽部の広場に行く前に見取図Hの平坦地に向かいます。

 

見取図Hの平坦地には、弾廠、炸薬填実所、装薬調整所、砲具庫と言った建物が置かれていたと推測されますが、痕跡は残っていません。

 

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配置を忘れかけているので見取図を再掲(^^;

 

見取図Eの広場には7連の棲息掩蔽部が残っています。

 

中央に5つ、両翼に斜め配置で1つずつ設けられていますが、左翼側だけサイズ・形状が異なっています。また、写真で見ても分かる通り窓も扉もブロックで塞がれているため内部を窺うことはできません。

 

最左翼の掩蔽部です。サイズも小さく窓もありませんね。

 

連結された棲息掩蔽部に小さめの掩蔽部が併設されているのは他地域の堡塁砲台でもよく見かけます。小さめの掩蔽部は将校室or病室or炊事場、普通サイズの掩蔽部は兵員室だと思われますが、気になるのは左側に設けられた通路です。このような造りは弾薬庫で見かけますのでその可能性も否めません。いずれにせよ中に入らない限りは分かりませんけどね。

 

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他地域に残る通路を持つ掩蔽部をピックアップします。ちなみに通路は弾薬庫内を照らすランプを置くための点燈窓の管理通路です。

 

東京湾要塞猿島第二砲台の砲側弾薬庫。

 

由良要塞友ヶ島第三砲台の弾薬支庫。

 

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6つの棲息掩蔽部は同型のようです。左端の掩蔽部のブロックに穴が開いていましたので頑張って覗いてみましたが、中を窺うことはできませんでした。

 

掩蔽部自体はよく見かけるタイプですが、扉上方の通気口の孔が独特の開き方をしています。レンガ1個飛ばしで開いていますね。

 

同様の“1個飛ばし”は由良要塞友ヶ島第四砲台で見ることができます。富野堡塁は4段、こちらは2段です。

 

ちなみにほとんどの棲息掩蔽部の孔はレンガ1列分の横長開口です。

 

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扉の蝶番部分に木材が残っています。

 

最右翼の掩蔽部の横に石段が設けられています。

 

左翼側にもありましたが、こちらの方が堆積物も少なくてきれいです。

 

石段は左翼同様屈折して背墻の上にあがっています。

 

それでは下ります。

 

石段を下りて見取図Eの広場を見ていますが、掩蔽部対面には土塁に上がる石段があります。

 

石段を上がった先は藪しかありませんでした(^^;

 

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掩蔽部右横の石段前には北側に伸びる塁道があります。当時は臼砲砲座(仮)の後方に出ましたが、現在は柵で封鎖されています。

 

外側から見るとこんな感じ。

 

臼砲砲座(仮)があった場所には老人ホームが建っています。

 

見取図Fの場所に掩蔽部が1つあります。

 

先ほど見た棲息掩蔽部はデフォルトのレンガ積みで窓と扉がブロックで塞がれていましたが、こちらは全面が覆われています。

 

掩蔽部の顔部分は通常より低いので戦後の舗装時に嵩上げされたのでしょう。以前格子の開口部から覗きましたが、よく見えなかったものの床面が低い位置にあったような記憶があります。

一方、ブロックの表面を見ると中央が白くなっておりココに扉があったような雰囲気を醸し出しています。さらに格子状の開口部も両側にありますが、扉や窓の位置としてはちょっと高すぎます。

 

さて、これは何用途でしょうか?

臼砲砲座と加農第1砲座の後方に位置していますので砲側庫かもしれませんが、軽砲の砲側庫にしては大きすぎるんですよね。そもそも通常の掩蔽部の顔のようにレンガ積みだったのか...何も積まれておらずトンネルのように開口していたのではないか...。

 

①砲側庫

②棲息掩蔽部

③材料庫用途の掩蔽部

④観測所の付属室

⑤トンネル

⑥トンネル内に①~④のいずれかを設置

 

考えられる用途を書いてみましたが、⑥については他の砲台でも見られる構造です。3か所ほどピックアップして掲載します。

 

広島湾要塞鷹ノ巣低砲台

 

芸予要塞大久野島北部砲台

 

舞鶴要塞葦谷砲台

 

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加農砲座があった場所を北側から見ています。

 

先ほども載せた写真ですが、展望台にあがって見取図Gの場所を見ています。駐車場と展望台の整備で加農砲座は消滅しました。

 

展望台に上がると小倉市街地が一望できます。加農砲の射撃の首線方向です。

 

以上、富野堡塁の書き直しでした。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭, 佐山二郎 共著、出版協同社)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

「日本工兵写真集」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「第13号 第12師団15珊臼砲交換に関する件」(Ref No.C03022302600 アジア歴史史料センター)

「補助建設物解除の件」(Ref No.C03022544600 アジア歴史史料センター)

「廃止予定堡塁使用に関する件」(Ref No.C03022546000 アジア歴史史料センター)