明治20年代後半の下関要塞では、海上射撃を行う砲台建設と合わせて、敵上陸兵に対する陸正面防御を担う堡塁・框舎の建設が計画されました。

下関地区と企救半島地区においてはいくつかの堡塁が設けられましたが、洞海方面地区は経費の関係で明治34年(1901)に建設中止となりました。

 

地図で示します。

 

洞海方面の陸正面防御地区は現在の北九州市若松区、八幡東区、八幡西区に跨る地域です。結果的にこの地区には防御営造物たる砲台、堡塁、框舎、弾薬庫は造られませんでしたが、建設予定地は陸軍が買収して要塞地帯に組み込んでいましたので、地図に記載した77臨時堡塁以外の3堡塁1框舎は第一区要塞地帯として指定されました。

 

※参考リンク:要塞地帯標と下関要塞地帯標の探索

 

******************************

今回取り上げるのは市瀬堡塁と奥田堡塁建設予定地の要塞地帯です。明治43年(1910)の要塞地帯図で見てみます。

 

2つの堡塁のぞれぞれに第一区の区割線が引かれています。第一区の外側は第二区に囲まれており、さらにその外側には第三区のラインが走っています。この地区で現存を確認した要塞地帯標石は7本ですが、このうち市瀬堡塁の第一区第六号は黒崎歴史ふれあい館に移設・展示されています。

 

*****************************

まずは市瀬堡塁第一区から見て行きます。古地図にて示します。

 

要塞地帯図では標石数や番号の判読が不能ですので、確認した1号と6号の位置から判断して時計回りに8本の標石で囲まれていたと推測しました。

 

確認した標石は2本です。まずは第一号標石ですが、道路沿いの民家の横に立っています。ってかよくぞ残した!(・∀・)

 

右面の“第一号”と裏面の“陸軍省”です。

 

標石の下部の膨れている部分は元々地面に埋もれていた箇所となります。要塞地帯図では番号の位置が不明ですが標石は第一区ライン上にありますので、どこからか移設されたわけではなくこの場所に元々立っていたと思われます。

 

表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”です。關から上が破損しています。

 

左面は“明治三十二年九月一日”ですが、ブロック塀で見えません。すごく頑張って覗き込んだら、“明治”の文字は破損していますがそれ以下の文字は確認できました。写真には“三十”が写っています。

 

*********************************

第六号標石は、黒崎駅前のコムシティ内にある黒崎歴史ふれあい館に移設・展示されています。『福岡県の戦争遺跡』によると、帆柱新四国第85番札所境内に立っていたところ、割子川の河川改修により移設されたそうです。

 

表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”です。

 

番号が確認できるか心配でしたが、右面の“第六号”がなんとか見えました。

 

左面の“明治三十二年九月一日”です。

 

裏面の“陸軍省”は標石を転がすわけにはいきませんので確認できませんでした(^^;

 

以上、市瀬堡塁第一区の標石でした。

奥田堡塁第一区と第二区&第三区は次回紹介します。