北九州市門司区最高峰の戸ノ上山(標高518m、とのうえやま、とのえさん)は、企救自然歩道沿いにありますので登山者が多い山ですが、明治期の陸軍はこの地に戸ノ上山框舎建設する計画を立てていました。

框舎(きょうしゃ)とは、少数の機関砲をもって防御を行う堡塁よりも小規模な陣地ですが、明治34年(1901)に経費の関係で建設中止となりました。

中止になったとは言え、框舎は要塞地帯を形成する防御営造物の1つですので、戸ノ上山の周囲には第一区地帯および第二区地帯の区割線が設けられていました。

 

参考記事:下関要塞探訪123 ~要塞地帯法と下関要塞地帯標の探索

 

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明治43年(1910)の要塞地帯図から戸ノ上山周辺の区割線を抜粋して掲載します。

 

第一区地帯は5本の標石で囲われています。なお外方には第二区地帯の区割線が設けられており、東側は50~60番台、西側は90番台の標石が立っていました。

 

続いて古地図で第一区および第二区地帯を示します。

(時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」より作成)

 

框舎建設を予定していた山頂には戸上神社の上宮が鎮座していますので、框舎を建てるスペースの確保が難しかったと思われます。かと言って昭和ならともかく立ち退きまでさせて建てるとも思えません。前回の妙見山頂框舎と状況は同じですね。

スペース的なものかもしれませんが、推測される建設予定地と第1号および第2号標石の推定位置が近すぎるのが若干気になるところです。

 

框舎の位置はともかくとして、第一区地帯の標石は5本中3本が現存しており、第二区地帯は第58号の1本を確認しています。

 

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では現地に赴きます。

戸ノ上山に登るには北側からの登山道を歩くのが最短ルートですが、南側の足立山方面から縦走することもできます。

 

登頂しました。

 

戸上神社の上宮です。

 

 

登山者用の山小屋もあります。

 

第一号標石は登山道沿いに抜かれて放置されています。

推定位置よりもだいぶ南西側にありましたので、ここが本来の埋設位置なのかどうかは若干疑問が残ります。

 

表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”が右側を向いて横たわっています。文字ははっきり確認できますね。

 

各面を確認するために起こしました。重い...。

高蔵山堡塁の第一地帯標のように全体の長さがよく分かりますね。

 

右面に“第一号”の文字。

 

左面に“明治三十二年九月一日”、裏面に“陸軍省”の文字が残りますが、明治期の標石共通の文言なので写真は割愛します。

 

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第二号標石の推定位置も探しましたが見つかりませんでしたので、次は南に進んでみると第三号標石を見つけました。

 

登山道沿いの広場の片隅に埋設されていますが、登山道からは見えません。

 

表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”です。気持ちいいくらい文字がはっきり確認できますね(・∀・)

 

右面の“第三号”。

 

左面の“明治三十二年九月一日”

 

最後は裏面の“陸軍省”です。

 

標石をよく見てみると矢印の所に亀裂が入って折られています。

 

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第四号標石は455mピークに折られて放置されています。

 

文字面を境として折られています。下部はどこにあるのか分かりませんでした。

 

確認のために木に立てかけました。だから重いって(^^;

表面の“S.M. 1st Z 下關要塞第一地帯標”です。

 

右面の“第四号”です。

 

以上が第一区の現存3本ですが、第一号は抜かれて放置、第三号は切断、第四号は切断して放置されていました。戦後にこれらの処置が取られたのかもしれませんが、もしかしたら昭和期に要塞地帯の区割りが変更になった際に行われたとも考えられます。

要塞地帯法が規定する防御営造物としての框舎は実際造られませんでしたので、第一区地帯から外されたのかもしれません。そうなると標石は必要なくなりますので、このような処置が取られたのではないかと。

 

なお最後の第五号標石も探しに行きましたが、推定位置は堰堤工事が進められていましたので、おそらく消失したものと思われます。

 

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次は第二区の第五八号標石を見に行きます。

第四号標石が転がるP455から東に向けて下って行くと登山道沿いに現れるのですが、道中は道が不明瞭でなかなか苦労しました。

 

表面の“S.M. 2nd Z 下関要塞第二地帯標”です。

 

要塞地帯法内規では“2nd”と刻むようになっていましたが、“nd”は確認できません。これだけはっきり文字が残っているのに掠れて消えたとも思えませんので、最初から刻まれていなかったのかもしれませんね。

それと、標石の多くは旧字の“關”が使われていますが、ここでは現代表記の“関”が用いられています。

 

右面の“第五八号”です。

 

左面の“明治三十二年九月一日”、裏面の“陸軍省”の写真は割愛しますが、第二区ともなると山の麓に近づいてきますのでなかなか現存していません。実際これまでも3本確認しただけです。

ちなみに59~62号の推定位置も探してみましたが見つかりませんでした。

 

それでは、戸ノ上山南方の大台ヶ原から関門海峡を眺めてお別れとします。

 

以上、戸ノ上山框舎建設予定地の第一区・第二区要塞地帯でした。