久々の由良要塞探訪です。
友ヶ島第四砲台は長らく立入禁止でしたが、昨年2022年12月より解禁となりましたのでレポートを掲載します。
砲台の履歴は以下の通りです。
◆起工:明治23年(1890年)11月29日
◆竣工:明治25年(1892年)5月25日
◆備砲:二十八糎榴弾砲 6門(明治32年12月備砲完了)、十二糎加農砲 2門
◆砲座設置標高:75m、72m
◆廃止:昭和10年(1935年)3月、要塞再整理にて廃止
※由良要塞の概略はこちら→→→
見取図です。
地下弾薬庫から砲座間の高塁道に砲弾を引き揚げて砲座に供給するスタイルは第三砲台と同じですが、こちらには十二糎加農を有する側防砲座が設けられています。
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では遺構を見に行きます。
桟橋から東に15分ほど歩くと、見取図にて赤丸で示した砲台入口に到着します。そこから道を上がると、高い石垣のある広場が現れます。
貯水所にありがちな造りですが、丸井戸や濾過槽は確認できませんでした。
石垣の横に説明看板が置かれています。
門柱が2本立っています。
入場した所に監守衛舎が置かれています。
建物裏を見ています。第三砲台の監守衛舎と似た作りですが、こちらの方が小ぶりですね。
内部はぐちゃぐちゃです...
地下の暗い所を見れるように懐中電灯が用意されています。
監守衛舎の横から掩蔽部への塁道を下ります。
3連の掩蔽部です。明治20年前半の起工なので、第三砲台と同じく穹窿部はコンクリートではなく煉瓦です。
扉の上の通気口は煉瓦1個飛ばしで開口しています。下関要塞冨野堡塁と同じですね。
内部です。
3部屋は奥で繋がっています。
掩蔽部の用途は第三砲台と同じく弾薬支庫かと思いましたが、第三にあった掩蔽部を囲む隙間がありませんので兵員の棲息掩蔽部としています。
掩蔽部の前に地下通路の入口があります。
手前は隙間通路で奥が入口です。
弾薬庫③の内部です。奥の天井に揚弾井の穴が開いています。
高塁道に開口する天井の揚弾井の穴を見上げています。
後ほど解説しますが、弾を引き揚げるイメージはこんな感じです。
反対の壁には3つの灯り置きの窓があります。
窓をヨリで。上下に穴が開いています。奥は隙間通路です。窓の金具も残っていますね。弾薬庫側に灯りの火を入れないための工夫がなされています。
弾薬庫③から階段を上がると...
砲座間を行き来する高塁道です。
床面の鉄板が置かれている所に揚弾井の穴が開いています。奥は第3砲座です。
揚弾井の真上に滑車のレール跡があります。
第三砲台ではココに滑車が残っていましたが第四にはありません。
高塁道の壁面を見ると、一定間隔で凹みがあり、内部には切断されたと思われる金具の跡があります。
さて、これまでも地下弾薬庫から揚弾井を通じて弾丸を砲座に供給する方法について考察してきました。そこであらためて、同じ揚弾スタイルを持つ東京湾要塞千代ヶ崎砲台のブログ記事から転載します。
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地下弾薬庫からどのように引き揚げて砲座に運んでいたのでしょう?
おそらくチェーンブロックのような機器で揚弾井から砲弾を引き揚げて、高塁道に設置された運搬用レールに乗せて砲座に運んでいたのではないかと推測します。史料を見ると「鶴頸揚弾機」や「鏈鎖揚弾機」と言った揚弾機があったようですが、いずれにせよ明治期は電力ではなく人力での操作でした。
揚弾の構造を示す史料/書籍がないので想像の域を出ませんが、僅かな史料と遺構の状況を踏まえて、こんな感じだったかなとイラストを描いてみました。あくまで想像なので細かいツッコミはなしで(笑)
揚弾井の上に設置されたのは鏈鎖揚弾機で、把手を回せばチェーンが揚弾井を昇降できるようになっています。地下の弾薬庫に下ろしたチェーンのフックに弾提鏈に掛けた砲弾を吊るして引き揚げ、台車に下ろして高塁道側の運搬用レールにスライドさせ、レールの上をゴロゴロ転がして砲座に運んでいた、、、と想像して描きました。
つまり揚弾井上部の鉄製のレール(枠?)は歯車(滑車)を設置した跡、高塁道の壁に残る凹みは運搬用レールの設置跡と言うわけです。
運搬用レールって正式名称が分からないけど、工場で製品を載せて次の工程に運ぶ時とか、空港の保安検査場で荷物載せて探知機通す時のあんな感じのヤツね(^^;
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ここでその1を終了します。その2では砲座を見ていきます。