今日から千代ヶ崎砲台をレポートしていきます。まずは砲台の履歴から。
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・起工:明治25年(1892)12月
・竣工:明治28年(1895)2月
・備砲:
二十八糎榴弾砲 6門(明治27年12月/4門、30年10月/2門据付)
十五糎臼砲 4門(明治28年1月据付)
十二糎加農 4門(明治33年12月据付)
七糎野砲 4門(明治37年の日露戦争時に据付)
・特記1:昭和20年(1945)の大東亜戦争終結まで存続
・特記2:大正14年(1925)に千代ヶ崎砲台の東側に隣接して砲塔砲台を建設
※東京湾要塞の概略はこちら→→→
配置図で場所を確認。東京湾口の一番南側に置かれています。
横須賀市東部の浦賀湾と久里浜湾に挟まれた岬が千代ヶ崎ですが、砲台はこの岬の平根山山頂一帯に設けられました。
主力の二十八糎榴弾砲で観音崎砲台群の援助や浦賀湾前面海域の射撃をして海正面の防御を果たすとともに、十五糎臼砲や十二糎加農などの軽砲を配置して、西南方の久里浜から上陸して攻めてくる敵兵に備えていました。
日清戦争(明治27-28年,1894-95)では二十八榴4門が戦備につき、日露戦争(明治37-38年,1904-05)では二十八榴6門、十二加4門、追加で配備された七糎野砲4門にて防御にあたりました。
大正12年(1923)の関東大震災で被害を受けるも復旧して昭和期も存続しましたが、昭和初期に十二加と十五臼、大東亜戦時中の昭和19年(1944)には二十八榴が撤去されたのち終戦を迎えました。
なお千代ヶ崎砲台の東側に伸びた平根山の稜線上には、廃艦された戦艦鹿島の三十糎砲塔を転用した砲塔砲台が大正14年(1925)に構築されました。
戦後、千代ヶ崎砲台跡地は海上自衛隊の通信所となり砲座などが埋められましたが、砲台跡は通信所廃止後の平成27年(2015)に国の史跡として指定され、横須賀市が管理していくことになりました。これを契機に砲台跡は整備され、令和3年(2021)10月より土日祝日限定で一般公開が開始されました。
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砲台の見取図ですが、いつものような手書きではなく、現地説明看板の見取図を転載させて頂きます。
海正面防御砲台跡の赤線で囲われた部分が史跡指定範囲で一般公開されている箇所となります。
その南側の陸正面防御砲台跡・右翼観測所跡、および千代ヶ崎砲塔砲台跡/付帯施設跡は民間農園のファーマシーガーデン浦賀の敷地内にあります。通常は立ち入りできませんが、ブルーベリー狩りやレモン狩りの時期は入場して遺構を見学することが可能のようです。
砲台跡地を拡大します。
ニ十八糎榴弾砲のすり鉢状の砲座が南北に3つ並んでおり、弾薬庫や掩蔽部は地下に設けられています。配置的には和歌山市の友ヶ島に築かれた由良要塞友ヶ島第三砲台及び第四砲台と似た造りとなっていますが、友ヶ島の砲座は樹木が繁茂して見え難いのに対し千代ヶ崎は伐採されていますので、すり鉢の形が非常によく確認できます。
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それでは現地を訪れます。
駐車場も完備されていますので車で行くこともできますが、訪問した時はバスと徒歩でした。京急浦賀駅からバスに6分乗車して燈明堂入口で下車、そこから徒歩15分です。ちなみに帰りは浦賀駅まで歩きましたが、散策しながら40分ほどで着きました。
燈明堂入口のバス停。
燈明堂って何!?と思いましたが、江戸期に設けられた灯台のような航路標識の施設で横須賀市の史跡として指定されています。
燈明堂はコレ。砲台跡の開門前に着いたので見に行きました。建物部分は再建ですが石垣は当時の物です。
燈明堂前方の海岸から砲台が築かれた平根山を望む。
砲台入口に到着しましたがまだ開門していませんので...
門扉のヒンジを確認した後で...
来た道を少し戻って右の道に行ってみます。
門柱が1本残っています。おそらくココが砲塔砲台の入口なのでしょう。
門柱の先を進むとファーマシーガーデン浦賀の入口ですが閉ざされています。入場できる時期にまた来よう。
9時半に開場。中に入ると土塁下の堀井戸が迎えてくれます。
ちなみに土塁はこんな感じで盛土されています。
案内所に進みガイドを依頼して砲台跡を見学しました。ガイド同伴だと地下部分が見学できますし、詳しく丁寧に説明してもらえますので見学の際はぜひ。猿島とは違って無料なので(・∀・)
まずは案内所で砲台の概略や展示物の説明を受けます。
案内所を後にして塁道を進んでいきます。
ブラフ積みの石垣が美しいです。
塁道を見下ろすとこんな感じ。
奥に見えるのは案内所と便所ですが、土塁に囲まれていることが分かります。写真右手には一段高く土塁が設けられており、敵の侵入に備えた作りとなっています。
この先見ていく塁道沿いはこんな配置となっています。(現地説明看板より抜粋)
用途不明部屋以外の掩蔽部は、現地で付与されている名称を加筆しています。
塁道沿いにはアーチ状の入口が並んでいますが、まず最初に現れるのが写真左手にある第三砲座砲側弾薬庫と左翼観測所への入口です。
入れませんので覗いてみる。
赤い所から覗いていますが、中はこんな感じ。
砲側弾薬庫は3つあるので別の箇所で見学できましたが、観測所はどうなっているのだろう?
ちなみに地上の観測所(司令所)は埋め戻されています。って言うか、おそらく壊されて原型を留めていないのでは?
それでは塁道に戻って先に進みます。
人が写り込んでいなくて良い写真です(^^)
1番乗りを目指して開門前に来ているのだから当然ですがw
第二貯水所です。
向かって右手の狭い部屋には沈殿槽と濾過槽があります。
左手の広い部屋には貯水槽があります。天井に水を引き揚げる機器の金具が残っています。
給水と排水の仕組みは現地説明看板にて。
内壁を見ると煉瓦の色合いが異なっています。
左側は通常レンガですが右側の赤褐色は焼過レンガです。通常のレンガより耐水性に優れているので、出入口の風雨に晒される所に使われています。千代ヶ崎だけではなく他の砲台でも見られますね。なおレンガの積み方はイギリス積みです。
第二貯水所の対面に掩蔽部が2つ並んでいます。現地の説明では第三掩蔽部です。
自衛隊時代に改修されているので前面にコンクリートが打たれています。なお掩蔽部は第一、第二、第三と3か所にありますが全て2個イチで置かれています。
ここから隧道に入りますが、隧道上の右側に目を向けると入口が見えました。
上から見るとこんな感じです。
入口前から置き石が並んでいますが、積石には金具の手すり跡が一定間隔で残っていますので、通路があったようです。また入口右手に昇降する階段が設けられていますね。
ガイドさんに伺うと、この入口を入ると通常の掩蔽部より小さめの部屋が1つあるだけとのことでした。将校室とか指揮所とか言われていましたが用途は不明のようです。
ちなみに、隧道を挟んで反対側には部屋への入口がありませんが、塁道から昇る階段が設けられています。
『日本築城史』には、「通路(※塁道のこと)から棲息掩蔽部上に昇る石段があり、陸正面防御のための歩兵用胸墻が造られている」と書かれていますので、用途不明の部屋は、敵が近接した際に歩兵用胸墻に上がって射撃をする兵員の待機所だったのではないか...と推測しますがどうでしょう?
ここで“その1”を終わります。続きはまた明日(^^)/
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[参考資料]
「現代本邦築城史」第二部 第一巻 東京湾要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)
「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)
「新横須賀市史 別編 軍事」(横須賀市)
「日本の要塞 -忘れられた帝国の城塞」(学研)
「日本の大砲」(竹内昭、佐山二郎共著 出版協同社)
「」(アジア歴史資料センター Ref No.)
「」(アジア歴史資料センター Ref No.)