明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、東京湾に侵入を目論む敵艦を撃退し、帝都東京と横須賀軍港を守るべく建設されたのが「東京湾要塞」でした。

 

東京湾とは一般的に、三浦半島の劔崎(つるぎざき)と房総半島の洲崎(すのさき)を結ぶ線より北の水域のことで、湾口にあたる浦賀水道を含めて言います。地図で示すとこんな感じですね。

 

なお、横須賀の観音崎(かんのんざき)と千葉の富津岬(ふっつみさき)を結ぶラインから北を狭義の東京湾として言う場合もあります。この2点間の距離は約7㎞で湾内最狭部となりますが、明治期の東京湾要塞はこの最狭部を防衛線の中心として砲台が建設されました。

 

観音崎。

 

観音崎最高峰から対岸の富津岬、房総半島を望む。

 

さて、日本全国の沿岸防御について最初に方案が示されたのは明治6年(1873年)で、フランスから招へいしたマルクリー中佐を長とする陸軍教師団によるものでした。翌年には後継のミュニエー中佐らが日本各地を巡視して防御法案を提出する一方で、帝国陸軍士官による意見具申が行われ、砲台の位置や数など具体案が示されていくことになります。

明治12年(1879年)、新設された海岸防御取調委員により、重要な防御地点は第一に東京湾、第二に大阪湾・紀淡海峡、第三に下関海峡であることが示されました。しかしながら3か所同時に砲台の工事を進めることは財政的に困難であったため、まずは東京湾の防御が優先されることになり、明治13年(1880年)5月に観音崎第二砲台、続いて6月には観音崎第一砲台の工事が開始されました。

 

東京湾の防御は観音崎~富津岬ラインを第一防衛線としました。観音崎は海門に突き出した半島で南の外海も見通せる場所にあることから、最重要拠点として強固な砲台が数多く建設されました。

一方対岸の富津岬も湾内に突出する岬ですが、こちらは砂州で構成されており、その先端の海上に人工島を構築して砲台を置くことになりました。(第一海堡) 

このような海堡は、のちに富津岬沖合に第二海堡が、観音崎北方に第三海堡が築かれましたが、この2つは明治20年代に着工されたものの工事は長期にわたり、完成したのは大正期に入ってからでした。

また、観音崎北西の走水と横須賀沖に浮かぶ猿島にも砲台が築造されるとともに、海軍の造船所が置かれた横須賀港の港口にも砲台による防御が施されました。

 

観音崎の海岸から富津岬と海堡を望む。

 

米ヶ浜から猿島、海堡、富津岬、走水。

 

 

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それでは地図で砲台の場所を示します。

 

明治期に築城された堡塁/砲台は25個でした。(観音崎旧第三砲台を含む。工事中の第二・第三海堡は除外)

これらは明治17年(1884年)から明治29年(1896年)にかけて竣工しましたが、工事期間終盤の明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発しました。

戦時下では臨時東京湾守備隊司令部が編成され、その指揮下に入った要塞砲兵第一聯隊が各砲台で配備に就きました。海軍も湾内に水雷を敷設し臨時の砲台を設置しましたが、翌明治28年4月に日本の勝利で戦争は終結しました。

 

終戦に伴い臨時の司令部は解隊しましたが、明治28年(1895年)4月5日付の『要塞司令部条例』にて、「永久の防御工事を以て守備する地を要塞と称し...各要塞には一の司令部を置く...」と定められたことにより、新たに東京湾要塞司令部が設置されました。

司令部設置4年後の明治32年(1899年)7月に制定された『要塞地帯法』では、「国防のため建設したる諸般の防御営造物の周囲の区域」が要塞地帯と定められました。これにより「東京湾要塞地帯」の線引きが施され、地帯内における民間人の行動に制限が課せられることになりました。

なお要塞司令部は、戦時においては当地の守備隊司令部として各部隊を指揮下に置いて戦いましたが、平時は要塞地帯法に基づき地帯内における取締、検閲、許可申請を行うのがお仕事でした。

 

要塞地帯に埋設された東京湾要塞第一地帯標。

 

東京湾要塞における守備は明治23年(1890年)に編成された要塞砲兵第一聯隊が担いました。日清戦争後の明治29年(1896年)に東京湾要塞砲兵聯隊と改称されて以降、昭和の大東亜戦争までの間に野戦重砲兵...横須賀重砲兵聯隊...と言った具合に何度も改称・改編されましたが、要塞守備のみならず戦地にも派遣されて重砲兵としての任務を遂行しました。

 

現存する重砲兵聯隊の営門。

 

日清戦争終結から9年後の明治37年(1904年)2月に日露戦争が開戦しました。東京湾要塞には海正面の第一線砲台の射撃態勢が整えられましたが、湾内に攻められることなく露西亜に打ち勝ち、明治38年9月に講和が結ばれました。

 

日露戦争の勝利後は海岸防御の見直し気運が高まり、明治末期になると要塞整理の議論が始まりました。東京湾要塞においても新たな防御ラインの策定と砲台建設、ならびに既存堡塁/砲台の廃止が大正から昭和初期にかけて検討された結果、明治期に築城された堡塁/砲台のほとんどが昭和9年(1934年)までに廃止・除籍となりました。

 

以上が明治期における東京湾要塞の歴史でした。大正期以降に関してはあらためて書くことにします。

 

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それでは明治期に築城された堡塁/砲台の簡単な履歴を掲載します。

なお砲台名の前に付けた数字は着工順です。(第二・第三海堡は除く)

 

========観音崎地区========

 

 

観音崎第一砲台(北門第一砲台)

・起工:明治13年(1880)6月5日

・竣工:明治17年(1884)6月27日

・備砲:二十三口径二十四糎加農 2門(明治27年9月備砲完了)

・廃止:大正2年(1913)廃止→大正4年(1915)除籍

 

 

観音崎第二砲台(北門第二砲台

・起工:明治13年(1880)5月26日

・竣工:明治17年(1884)6月27日

・備砲:二十六口径二十四糎加農 6門

→明治22年:4砲座に種類の異なる火砲を据付(のち撤去)

→明治27年:二十六口径二十四糎加農 4門据付

→明治30年:二十六口径二十四糎加農 2門据付

・廃止:関東大震災(大正12年9月1日)で被害→大正14年(1925)7月除籍

 

 

観音崎第三砲台(北門第三砲台  ※第四砲台から改称)

・起工:明治15年(1882)8月

・竣工:明治17年(1884)6月

・備砲:二十八糎榴弾砲 4門(明治27年9月備砲完了)

→明治17年:二十八糎榴弾砲2門編成で竣工

→明治26年:第三砲台廃止により4門編成に変更

・廃止:関東大震災(大正12年9月1日)で被害→大正14年(1925)7月除籍

・特記:当初第四砲台と称したが、明治26年(1893)12月にこれまでの第三砲台が廃止されたため、繰り上げて第三砲台と改称された。備砲4門のうち2門は旧第三砲台から移設。

 

 

観音崎旧第三砲台

・起工:明治14年(1881)

・竣工:明治19年(1886)12月

・備砲:二十八糎榴弾砲 2門(廃止後は新たな第三砲台に移設)

・廃止:明治26年(1893)、火砲の遠戦砲力を十分生かせないため同砲台を廃止し、三軒家に新砲台を建設することが決定。(のちの三軒家砲台)

 

※自衛隊敷地内にて通常は立入禁止。許可を受けて見学。

 

観音崎第四砲台(南門第一砲台  ※第五砲台→第四砲台→観音崎砲台と改称)

・起工:明治19年(1886)11月

・竣工:明治20年(1887)5月

・備砲の変遷:

→明治24年(1891)2月、二十四糎臼砲 4門を据付

→明治26年ごろから十二糎加農への変更を計画

→明治32年10月、日清戦争戦利品の十五糎加農に据付変更

→明治34年(1901)3月、砲床改造後、克式三十五口径前心軸十五糎加農 4門を据付

・名称の変遷:

→明治26年(1893)12月、当初の第五砲台から第四砲台に改称

→大正15年(1926)12月、観音崎の他砲台除籍に伴い、観音崎砲台と改称

・特記:関東大震災で被害を受けるも復旧、大東亜戦争終戦まで存続

 

※自衛隊敷地内にて通常は立入禁止。許可を受けて見学。

 

観音崎南門砲台

・起工:明治25年(1892)11月

・竣工:明治26年(1893)8月

・備砲:十二糎速射加農 4門、九糎速射加農 4門(明治33年2月備砲完了)

・廃止:関東大震災(大正12年9月1日)で被害→大正14年(1925)除籍

・特記:昭和の大東亜戦争中に十五糎加農砲座を構築

 

 

三軒家砲台

・起工:明治27年(1894)12月

・竣工:明治29年(1893)12月

・備砲:加式鋼製二十七糎加農 4門、馬式十二糎速射加農 2門(明治29年2月備砲完了)

・廃止:関東大震災で被害を受けるも復旧。昭和9年(1934)8月に除籍。

 

 

大浦堡塁

・起工:明治28年(1895)5月

・竣工:明治29年(1896)7月

・備砲:九糎加農 2門(明治35年3月備砲完了)

・廃止:大正14年(1925)7月除籍

 

 

腰越堡塁

・起工:明治28年(1895)5月

・竣工:明治29年(1896)3月

・備砲:九糎加農 2門(明治30年3月備砲完了)

・廃止:大正14年(1925)7月除籍

 

 

 

========走水(はしりみず)地区========

 

 

走水低砲台(※走水砲台から改称)

・起工:明治18年(1885)4月

・竣工:明治19年(1886)4月

・備砲:

→明治26年(1893)3月、加式二十七糎加農 4門据付

→明治37年(1904)1月、斯加式二十七糎加農に交換。2門を配備して日露戦争に突入するもその後2門を追加し4門編成となる。

・廃止:関東大震災で被害を受けるも復旧。昭和9年(1934)8月に除籍。

・特記1:当初の名称は走水砲台だったが、走水高砲台建設に伴い、明治30年(1897)に走水低砲台と改称

・特記2:廃止除籍後、横須賀重砲兵学校が旧砲座前方に九糎速射加農4門を設置し、演習用に使用した。

 

 

走水高砲台

・起工:明治25年(1892)11月

・竣工:明治27年(1894)2月

・備砲:加式二十七糎加農 4門(明治28年1月備砲完了)

・廃止:昭和9年(1934)8月に除籍

 

小原台(おばらだい)堡塁

・起工:明治25年(1892)12月

・竣工:明治27年(1894)9月

・備砲:十二糎加農 6門、十五糎臼砲 4門(明治30年3月/32年8月備砲完了)

・廃止:大正2年(1913)7月に除籍

 

花立台砲台(堡塁砲台)

・起工:明治25年(1892)10月

・竣工:明治27年(1894)12月

・備砲:二十八糎榴弾砲 8門、十五糎臼砲 4門、十二糎加農 4門

・備砲完了:二十八榴/明治27年11月、十五臼/32年9月、十二加/31年2月

・廃止:関東大震災(大正12年9月1日)で被害→大正14年(1924)7月除籍

 

 

========横須賀軍港地区========

 

夏島砲台

・起工:明治21年(1888)8月

・竣工:明治22年(1889)11月

・備砲:二十四糎臼砲 10門(明治25年6月/6門、34年3月/4門 備砲完了)

・廃止:大正2年(1913)廃止決定→大正4年(1915)9月除籍

 

笹山砲台

・起工:明治21年(1888)8月

・竣工:明治22年(1889)8月

・備砲:二十四糎加農 4門(明治26年10月備砲完了)

・廃止:大正2年(1913)廃止決定→大正4年(1915)9月除籍

 

箱崎高砲台

・起工:明治21年(1888)9月

・竣工:明治22年(1889)9月

・備砲:二十八糎榴弾砲 8門(明治25年12月備砲完了)

・廃止:大正2年(1913)廃止決定→大正4年(1915)9月除籍

・特記:明治37年(1904)8月、日露戦争における旅順要塞攻略のため、備砲の二十八糎榴弾砲8門を米ヶ浜砲台の6門とともに旅順に移送

 

箱崎低砲台

・起工:明治22年(1889)6月

・竣工:明治23年(1890)8月

・備砲:二十四糎加農 4門(明治27年2月備砲完了)

・廃止:大正2年(1913)廃止決定→大正4年(1915)9月除籍

 

波島砲台

・起工:明治22年(1889)7月

・竣工:明治23年(1890)7月

・備砲:二十四糎加農 2門(明治26年8月備砲完了)

・廃止:大正2年(1913)廃止決定→大正4年(1915)9月除籍

 

横須賀港のヴェルニー公園から港口を望む。

 

米ヶ浜砲台

・起工:明治23年(1890)4月

・竣工:明治24年(1891)10月

・備砲:二十八糎榴弾砲 6門、二十四糎加農 2門

・備砲完了:明治24年10月備砲完了

・廃止:大正2年廃止予定→大正14年(1925)除籍→昭和2年(1927)、二十八糎榴弾砲4門の演習砲台となる

・特記:明治37年(1904)8月、日露戦争における旅順要塞攻略のため、備砲の二十八糎榴弾砲6門を箱崎高砲台の8門とともに旅順に移送

 

 

 

========猿島・富津・海堡地区========

 

猿島第一砲台(※猿島第二砲台から改称)

・起工:明治14年(1881)11月

・竣工:明治17年(1884)6月

・備砲:二十七糎加農 2門(明治26年12月備砲完了)

・廃止:関東大震災(大正12年9月1日)で被害→大正14年(1925)7月除籍

・特記:猿島は3砲台制(第一、第二、第三)だったが、備砲予定のない第一砲台が司令所として改造されることになり、明治25年(1892)、第二砲台から第一砲台に改称された。

 

 

猿島第二砲台(※猿島第三砲台から改称)

・起工:明治14年(1881)11月

・竣工:明治17年(1884)6月

・備砲:二十四糎加農 4門(明治25年3月備砲完了)

・廃止:関東大震災(大正12年9月1日)で被害→大正14年(1925)7月除籍

・特記:明治25年(1892)、第三砲台から第二砲台に改称

 

 

富津元洲砲台(堡塁砲台)

・起工:明治14年(1881)8月

・竣工:明治17年(1884)6月

・備砲:二十八糎榴弾砲 6門、十二糎加農 4門(明治25年3月備砲完了)

・廃止:大正4年(1914)9月除籍

・特記:明治37年(1904)の日露戦争開戦時は二十八榴6門、十二加2門で配備に就くが、同年11月に二十八榴2門を他要塞に移送

 

第一海堡

・起工:明治14年(1881)8月

・竣工:明治23年(1890)12月

・備砲:二十八糎榴弾砲 14門、十二糎加農(のち速射加農) 4門、十九糎加農 1門(明治27年~)、機関砲 10門

・備砲の変遷:

→明治34年・七糎半速射加農 4門の砲座構築(備砲の有無は不明) 

→明治37年・日露戦争中、二十八糎榴弾砲 6門を他要塞に移送

→大正期以降は色々変更

・特記2:昭和20年(1945)の大東亜戦争終結まで存続

 

第ニ海堡(※明治期は砲台工事中)

・起工:明治22年(1889)7月

・人工島完成:明治32年

・竣工:大正3年(1914)6月

・備砲:大正期竣工の為ここでは省略

・廃止:関東大震災(大正12年9月1日)で被害を受け除籍

・特記:明治27年(1894)の日清戦争時、海軍が火砲、水雷衛所を設置

 

第三海堡(※明治期は砲台工事中)

・起工:明治25年(1892)8月

・竣工:大正10年(1914)6月

・備砲:大正期竣工の為ここでは省略

・廃止:関東大震災(大正12年9月1日)で被害を受け大正14年(1924)7月除籍

 

 

 

【久里浜地区】

 

千代ヶ崎砲台

・起工:明治25年(1892)12月

・竣工:明治28年(1895)2月

・備砲:

二十八糎榴弾砲 6門(明治27年12月/4門、30年10月/2門据付)

十五糎臼砲 4門(明治28年1月据付)

十二糎加農 4門(明治33年12月据付)

七糎野砲 4門(明治37年の日露戦争時)

・特記:昭和20年(1945)の大東亜戦争終結まで存続

 

 

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以上、明治期の東京湾要塞の概略でした。

それでは次回から各砲台の探訪記を書いていきます。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第一巻 東京湾要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「新横須賀市史 別編 軍事」(横須賀市)