今日は猿島に渡って砲台跡を見に行きます。
東京湾要塞の砲台配置図にて猿島の場所を確認。点線で囲った所です。
まずは猿島の歴史をごくごく簡単に...。
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猿島は横須賀市の三笠公園から約1.75km沖合に浮かぶ無人島です。
江戸末期には幕府の台場が築かれましたが、明治維新後は海軍省→陸軍省の管理下に置かれ、明治17年(1884)には東京湾を防御する陸軍の砲台が竣工しました。
その後日清戦争(明治27-28年)、日露戦争(明治37-38年)で戦備に就きましたが、大正12年(1923)の関東大震災での被災を契機として砲台は廃止されることになり、昭和2年(1927)に猿島の軍用地は陸軍から海軍に移管されました。
海軍は大東亜戦争開戦前の昭和16年(1941)に高角砲台を設置して空襲に立ち向かいましたが、昭和20年(1945)8月15日に終戦となりました。
終戦後の猿島は米国に接収されましたが、昭和36年(1961)に国に返還されることになりました。返還前には海水浴場が開設されて民間人の立ち入りが可能となっていましたが、平成期に入ると海水浴場も定期航路も廃止されました。
しかし再開の声が多く上がったことで、横須賀市が平成7年(1995)に国から猿島の管理を受託してこれらを復活させました。さらに平成15年(2003)には横須賀市に無償譲与されることになり、その後は猿島公園として整備されて現在に至っています。
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桟橋のある南側から見た猿島です。
さて、本項は陸軍の東京湾要塞猿島砲台のレポートですので、まずは砲台の履歴を書いていきます。
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猿島砲台は東京湾に侵入せんとする敵艦の撃退を目的として、観音崎、走水、第一海堡とともに明治10年代に着工された東京湾要塞第1期築城の砲台です。明治14年(1881)着工、明治17年(1884)竣工にて島内に3つの砲台が設けられました。
第一砲台:島の中部、二十八糎砲1門(回転式)
第二砲台:島の北部、二十四糎砲2門(固定式)
第三砲台:島の南部、二十一糎砲4門(固定式)
砲台は完成したものの配備予定の火砲は据付けられないまま時が経ちましたが、明治23年(1890)の東京湾防御計画において、第一砲台は兵備から外して司令所に改造することになったため、猿島砲台は3砲台制から2砲台制に変更されることになりました。そして明治25年(1892)、第一砲台廃止に伴い既存の第二砲台は「第一砲台」に、第三砲台は「第二砲台」に繰り上がって改称されました。
第一砲台:司令所に改造(砲台廃止)
第二砲台:第一砲台に改称、二十七糎加農2門に兵備変更
第三砲台:第二砲台に改称、二十四糎加農4門に兵備変更
新たな第一砲台には明治25年(1892)に加式二十八口径二十七糎加農2門が、同じく第二砲台には明治26年(1893)に二十三口径二十四糎加農4門が据え付けられ、日清戦争(明治27-28年/1894-95)および日露戦争(明治37-38年/1904-05)にて東京湾の防御につきました。
その後大正期に入っても猿島砲台は残置されましたが、大正12年(1923)の関東大震災で被災したことをきっかけとして砲台は廃止されることになり、大正14年(1925)7月に防御営造物から除籍されました。
東京湾要塞の概略はこちらのリンクにて。
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島内の配置図を描きましたので掲載します。
現地訪問、史料・書籍などを参考にしていますが、見学できるのは1階部分だけですので、2階・3階は史料の砲台図をトレースして描きました。なお隧道内に2階部分が存在しますが、これを書くとごっちゃになるので省いています。
また、夜間に海面を照らす電燈は明治28年(1895)ごろに構築されたようで、電燈を配置する照光座は弾薬元庫の上方に、電力を供給する機関舎は南部の海岸沿いに置かれました。
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さて、個々の遺構の詳細は次回から書くとして、まずは島をぐるりと回ってみます。
猿島に渡るには記念艦三笠に隣接した桟橋からフェリーに乗船します。
乗船料は入園料500円込みで大人往復2,000円。(横須賀市民は半額)
乗船10分で島の南部に上陸します。
なおこの桟橋は後世に造られた物で、当時は矢印の所に繋船場がありました。
こちらが当時物。石積みの繋船場(埠頭)が現存しています。階段も残っていますね。
資料展示室に埠頭と護岸の説明書きがあります。
上陸した海岸には監守衛舎、兵舎、砲具庫などが建てられていましたが、公園の休憩所・管理施設が置かれていますので今は残っていません。
唯一現存するのは電燈機関舎で、現在も使用されています。
電燈機関舎を含めた電燈所については、あらためて詳しく書くことにします。
素掘りの切通しを通って進んで行くと...。
猿島の映えスポットの幹道が現れます。
切石凝灰質礫岩によるブラフ積み被覆壁を施した切通しの軍路です。右手には第二砲台の掩蔽部や砲側弾薬庫が並んでいます。
まっすぐ伸びる道を進むと、屈折した先に隧道の入口が見えてきます。
長さ90mの隧道です。通称“愛のトンネル”。
レンガ積みが美しいです。左手には弾薬元庫の入口や上層階への階段がありますが、入ることはできません。
フランドル(フランス)積みの構造物がここまで美しく残っているのは珍しいです。
前回の走水低砲台の記事でも書きましたが、レンガの積み方は時代や用途によって異なります。明治20年前半までの要塞築城初期はフランドル積みが主流、その後イギリス積みとなりました。各々の積み方はこんな感じです。
隧道を抜けると第一砲台の砲側弾薬庫が目の前に現れます。
1階は弾薬庫の入口ですが、2階に揚弾口が見えます。揚弾口の前には塁道が設けられており、右と左に砲座が1つずつ配置されていました。探索したいところですが、残念ながら2階は立入禁止です。
振り返ると右手に歩いてきた隧道、左に掩蔽部と小さな隧道があります。
弾薬庫内ですが、内壁も奥の壁も破壊されて貫通しています。
猿島砲台廃止後に、海軍がこの先に高角砲を設けることになりましたが、通路を確保すべく取り壊したそうです。
先ほど掲載した配置図には描き込んでいませんが、第一砲台前方にあたる平地に八糎高角砲の砲座が4つ現存しています。写真はそのうちの1つ。
八糎高角砲座を見ながら遊歩道を歩くと、島の北東端の広場に行き着きました。
正面に見えているのは観音崎ですが、位置を変えると房総半島の富津岬や第一・第二海堡などが見えます。
広場から海岸まで下りてみると、用途不明のコンクリート構造物がありました。
遊歩道に復帰して進むと分岐路が現れました。
右は小さな隧道を抜けて第一砲台、左は展望台広場に行けますが、隧道は第一砲台の記事で紹介するのでココはまっすぐ行きます。
階段を上がって展望台に到着。
昭和の防空指揮所を展望台として使っていたようですが、現在は立入禁止です。
展望台広場から横須賀・横浜方面の景色が見れます。
この広場が猿島の最高峰で、北東に司令座、南西に電燈照明座があったと思われます。遺構は原形を留めておらず瓦礫として残るのみのようです。
広場から下ると、第二砲台前方にあたる位置に十二糎七高角砲座が残っています。
さらに南に進むと同じ高角砲座がもう1つありますが、ほぼ埋没していますし手前にロープが張られて立ち入りが規制されています。
と言うことでこれにて終了。遊歩道から切通しの幹道に下りて海岸に戻りました。
以上、猿島の概略と島内一周でした。
次回は猿島第二砲台を詳しくレポートします、、、と言っても立入禁止箇所ばかりなので大して書けませんが(^^;
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[参考資料]
「現代本邦築城史」第二部 第一巻 東京湾要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)
「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)
「新横須賀市史 別編 軍事」(横須賀市)
「日本の要塞 -忘れられた帝国の城塞」(学研)
「日本の大砲」(竹内昭、佐山二郎共著 出版協同社)
「土地並立木竹管理換の件」(アジア歴史資料センター Ref No.C07050331000)
「」(アジア歴史資料センター Ref No.)