今日は三軒家砲台をレポートします。まずは砲台の履歴から。

 

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・起工:明治27年(1894)12月

・竣工:明治29年(1896)12月

・備砲:加式鋼製二十八口径二十七糎加農 4門、馬式十二糎速射加農 2門

・備砲完了:二十七加/明治29年4月、十二速加/明治27~28年ごろ

・廃止:関東大震災で被害を受けるも復旧。昭和9年(1934)8月に除籍。

 

※東京湾要塞の概略はこちら→→→

※観音崎砲台配置図はこちら→→→

 

明治26年(1893)、観音崎第三砲台の廃止に伴い新たな砲台の建設が決まりました。新砲台は観音崎と走水の中間に位置する三軒家部落北側の稲荷山山上に設けられることになりましたが、これが明治29年(1896)12月に竣工した三軒家砲台です。

 

砲台は北東に面して設置され、第三海堡と第二海堡の間の海面を射撃して之を通過せんとする敵艦の航行を杜絶せんとすることが目的とされました。

 

地図で表すとこんな感じです。

 

この目的のために配備されたのは加式(カネー式)鋼製二十八口径二十七糎加農 4門で、明治29年4月に備砲を完了しました。

 

なお重砲加農に隣接して日清戦争(明治27-28年)の間に軽砲加農砲台が建設されました。これは明治26年に購入した馬式(マキシム式)十二糎速射加農2門の試験用に設けられたものでしたが、戦役後の明治29年に軽砲砲台を永久存置することが決定し、三軒家砲台の兵備として追加されることになりました。

 

明治37年(1904)に始まった日露戦争では戦備につき、水雷防御用として野砲6門も合わせて配備されました。

 

大正12年(1923)9月1日の関東大震災では被災するもその後復旧・残置されましたが、昭和期の要塞再整理にて廃止の方向となり、昭和9年(1934)8月に防御営造物から除籍されました。

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以上が砲台の履歴でしたが、続いて見取図を掲載します。

 

砲台跡地は観音崎公園の「三軒家園地」となっています。遺構の状態は良好ですが、二十七糎加農第2砲座と観測所~軽砲砲座間の横墻は、砲台前面の広場に通ずる道の建設によって壊されています。

砲台後方には平坦地がありますが、この場所には昭和期に探照灯の施設が置かれたようです。なお平坦地北東側にはコンクリート製の円形掩体が残っていますが、おそらく昭和期に築かれたものではないかと思われます。

 

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それでは遺構を見に行きます。

アクセスは2ルートありますが、見取図で示した赤丸矢印から向かいます。

 

赤丸の所に「三軒家園地 旧砲台跡」のレリーフがあります。

 

レリーフ周辺の石積みや階段は当時物っぽいですね。なおこの後ろが見取図で言う平坦地で、昭和期に探照灯施設が置かれた場所のようです。奥に行くとコンクリート製の円形掩体がありますが、紹介は後回しにします。

 

遊歩道の両側に門柱が残っています。

 

右側の門柱をヨリで。横の壁も一部残っていますね。

 

門柱を過ぎてすぐ左手に掩蔽部の入口が2つ並んでいます。

 

2つとも入口は扉で閉ざされていますが、この2つの掩蔽部は両側に出入口を持つ構造となっています。こちらは南西側ですが、北西側の出入口は砲座後方にあります。

 

砲台後方の切通しの先に...

 

掩蔽部の北西側出入口があります。こちらはコンクリートで塞がれていますね。

 

では戻ります。

 

二十七糎加農の第1砲座から見ていきます。

 

砲座内部を見ています。胸墻は石積みですね。

 

特筆すべきは即用弾丸置場の内壁に迷彩が残っていること!(・∀・)

 

美しいですね(*´Д`)

 

丸い穴は伝声管かな。なんか変なところに開いてるけど(・_・;)

 

第1砲座を真横から見下ろしています。床面に丸く色が変わっている箇所がありますが、これが据付部分の砲床でしょうね。

 

 

次に地下砲側庫を見てみます。

各砲座間には横墻を配し、その下に砲側庫が置かれています。明治32年の史料には従来から設置していた鶴頸揚弾機の改築について書かれていますので、揚弾機を用いて砲弾を引き揚げていたと思われますが、どんな構造だったかはよく分かりません。

 

砲側庫①です。

 

砲側庫は3つ残っていますが、すべてGLマイナスで造られていますので両側に階段が配置されています。なお砲側庫入口はコンクリートで塞がれているので中を窺うことができません。

 

砲側庫①の真上にが架かっています。横墻上の砲座間を行き来する通路に渡る橋...と言ったところでしょうか。

 

第2砲座は前方の広場に出る通路建設で壊されています。

 

道路脇に胸墻の一部が残っています。(目を凝らせば見えますw

 

第2~第3砲座間の砲側庫②です。

 

砲側庫②には砲側庫①に架かっていた橋がありません。壊れて無くなったわけではなく最初から無かったようです。ちなみに砲側庫③には橋があります。

 

橋は見ての通りありませんが、4つの方形の石柱が気になります。

 

第3砲座です。

 

即用弾丸置場の内壁に“三ノ二”“そ”の文字が残っています。

 

右隣りを見ると“三ノ一”“れ”が見えます。

 

“三ノ一”と“三ノ二”は、即用弾丸置場(弾室)の通し番号です。第三砲座の一番弾室、二番弾室...と言った感じです。弾室は1砲座に8つあり、向かって右端が“三ノ一”、左端が“三ノ八”です。

 

“三ノ八”も薄っすらと残っていますが、かな文字は確認できません。

 

さて漢数字の横に残るかな文字ですが、“いろは順”で書かれた通し番号ではないかと思われます。

 

※1砲座に弾室が8つ

第1砲座…いろはにほへとち/一ノ一,二,三,四,五,六,七,八

第2砲座…りぬるをわかよた/二ノ一,二,三,四,五,六,七,八

第3砲座…つねならむう/三ノ一,,三,四,五,六,七,八

第4砲座…ゐのおくやまけふ/四ノ一,二,三,四,五,六,七,八

 

かな文字は“れ”と“そ”以外確認できませんでしたが、漢数字もかな文字も順番がぴったり合うので間違いないかと。ちなみにいろは順は他地域の砲台の弾室にも見られました。

おそらく竣工当時はいろは順で書かれていたのでしょう。その後いつかの時点で漢数字の順番が追記されたのではないかと推測します。

 

 

第3と第4砲座間の砲側庫③です。上部に橋が架かっていますね。

 

最左翼の第4砲座です。

 

胸墻に弾室が8つあるのは他の砲座と同じですが配置が若干異なっており、右から7つは固まっているのに一番左側だけ離れています。

 

迷彩がはっきり残っています。

 

迷彩は対空迷彩でしょうから、塗られたのは昭和に入ってからだと思われます。

 

通し番号の“四ノ二”がはっきり残っています。

 

胸墻に伝声管の孔があります。左翼の観測所に繋がっていると思われます。

 

以上、ここで前編を終わります。続きはまた明日。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第一巻 東京湾要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「新横須賀市史 別編 軍事」(横須賀市)

「日本の要塞 -忘れられた帝国の城塞」(学研)

「日本の大砲」(竹内昭、佐山二郎共著 出版協同社)

「走水高砲台及三軒家砲台の鶴頚揚弾機改造の件」(アジア歴史資料センター Ref No.C02030228300

「軍務局より 三軒家砲台の右翼に建設したる加農砲台在置の件」(アジア歴史資料センター Ref No.C03023062400