明治期に築城された陸軍の要塞は、北から函館、東京湾、舞鶴、由良、鳴門、芸予、広島湾、下関、対馬、佐世保、長崎の11か所ですが、約2年半でひと通り探訪しましたので、随時再訪を進めているところです。

 

今回からしばらくの間、2年ぶりに再訪した三高山堡塁をレポートします。

 

広島湾要塞の概略はこちら。

 

 

広島湾要塞においては、広島湾・呉軍港への敵艦侵入を防ぐべく4つの水路を堡塁砲台で封鎖しましたが、中でも大型艦艇の航行が容易な那沙美瀬戸には、4つの砲台と2つの堡塁を築いて強固な防御体制を取りました。三高山堡塁はその内の一つであり、那沙美瀬戸を望む能美島の三高山(砲台山 標高401.8m)の山頂北方に築城されました。

 

那沙美瀬戸周辺の堡塁砲台です。矢印は火砲の首線を示しています。

 

三高山堡塁から海峡を見下ろしています。

 

三高山堡塁の簡単な履歴です。

◆起工:明治32年(1899年)3月9日

◆竣工:明治34年(1901年)3月7日

◆備砲:二十八糎榴弾砲 6門、九糎臼砲 4門、九糎速射加農 4門

◆備砲完了:明治36年(1903年)3月

◆設置標高:385m/386m/385m

◆廃止:大正10年(1921年)9月・廃止、大正15年10月・呉鎮守府に移管

◆特記:堡塁西北の標高200m地点に補助観測所を設置

※訪問年月:2020年7月、2022年10月

※過去記事:2020年7月16日

 

三高山には3種類の火砲が配備されました。主力となる二十八糎榴弾砲は海峡前面一帯の海面を射撃することにありましたが、軽砲の臼砲と速射加農砲は能美島南部から上陸して堡塁/砲台に攻め込んでくる敵に対する防御を行う任務を持っていました。なお九糎臼砲の射撃の首線は西北の海側でしたが、状況に応じて海陸両方の射撃が可能であったと思われます。

 

堡塁跡地は遺構を残しつつ「創造の森森林公園」として整備されています。遺構の状態も良く、ボランティアの方々が定期的に清掃を行っているおかげで大変きれいに保たれています。

ただこの場所、非常に遠いんですよね。陸路だと広島市街地からぐるっと回り込んで車で2時間弱、呉市からも1時間程度はかかります。2年前は車で行きましたが、先月の再訪では車を使わずに海路と徒歩で行ってみました。

 

広島市南部の宇品港から能美島の三高港までフェリーに乗船します。

 

船上より。右は厳島、真ん中は大奈佐美島、左は能美島の三高山です。

 

乗船40分で三高港に上陸。後はひたすら歩きます。約6㎞で1時間以上はかかりますのでなかなか遠いですけどね(^^;

 

歩いていると忠魂碑が立っていました。

日清、日露、シベリア出兵での戦死者の碑です。揮毫者は鈴木壮六大将。広島の第5師団長としてシベリアに出兵、退役後は在郷軍人会の会長を務めました。

 

続いて、レンガ積みの素敵な横穴壕が現れました。

 

覗いてみた。

 

もう一つありますが戦争遺構かどうかは分かりません。

 

前置きはこれくらいにして、堡塁の遺構を見ていきます。配置図を掲載します。

 

見ての通り南北に長い配置となっています。現地の案内看板では二十八糎榴弾砲々座周辺を北部砲台、九糎軽砲々座周辺を南部砲台としていますが、本ブログでは史料に記載のあった首堡塁(北部砲台)、付属堡塁(南部砲台)の名称で紹介します。

 

軍道を通って北側から堡塁敷地に入ると、石積みの兵舎が目に飛び込んできます。掩蔽部南の階段を上がると、両翼に観測所を配した二十八糎榴弾砲の砲座群が横一線に並んでいます。砲座群から下ると砲弾の調整を行う施設がありましたが、現在は駐車場になっています。

駐車場から道路を下ると付属堡塁(南部砲台)の入口があります。付属堡塁は砲座・掩蔽部1・砲側庫2のコンパクトな造りで、周囲には塹壕が設けられています。

なお当時の建物は消滅もしくは一部瓦礫として残るだけですが、史料を参考に建物の位置と用途を書き込みました。

 

では今回取り上げる兵舎周辺の見取図を拡大して掲載します。

 

赤矢印から元軍道の遊歩道を歩いていると山側の削平地に気づきました。ここが炊事場となります。

 

藪の中に瓦礫が転がっていますが、一部レンガ積みの壁が残っています。竈のような造りに見えました。

 

炊事場の先には遊歩道の柵の切れ目から積石された通路が下っています。

 

下ると堀井戸がありますが、危ないので見下ろした写真に止めます。

 

軍道をU字ターンすると兵舎地のレンガ壁が見えてきました。

 

到着。正面に掩蔽部が見えます。軍道の谷側に一定間隔で転落防止用の石柱が立っています。

 

掩蔽部を背にして振り返ると、右側に歩いてきた道、左側にレンガ積みの竈と兵舎があります。

 

炊事場跡とありますが、史料では砲台守の監守衛舎が置かれていた場所となります。

 

3釜あったようです。

 

他の痕跡。

 

兵舎脇にと思しき遺構。手前が小便、奥が大便槽かな。

 

石造りの兵舎です。美しいですね(・∀・)

 

広島湾要塞界隈では高烏堡塁と早瀬第一堡塁に同様の兵舎が現存していますが、三高山の物は屋根や窓が再建されています。

 

高烏の兵舎。大きさ的には同じようですが窓やドアの配置が異なりますね。

 

早瀬第一の兵舎。こちらが三高山の物と同型のように見えます。

 

三高山兵舎に戻って...。

カギが開いているので中に入ってみます。

 

アーチ部分の留め金は当時物かな。

 

兵舎の裏手に展望台があります。

 

冒頭に載せた海峡の写真はココから撮りましたが、カメラを右に振ると江田島、似島、広島市方面が見えます。眼下に乗船したフェリー乗り場も見えますね。

 

それでは戻ります。このレンガ壁もいい味出していますね。

 

ちなみにレンガ壁は掩蔽部前の谷側にも残っています。

 

傾きながらも頑張って立っています。

 

壁面に丸い金具が2つ残っていますのでココが壁の切れ目でしょう。分岐路脇に位置しているので通行を制限するワイヤーロープが掛けられていたのではないかと思われますが、対となるもう1本の柱はありません。

 

左の案内看板の所にレンガ柱が立っていれば正解なんですけどねw

 

次に掩蔽部を見ていきます。2連の棲息掩蔽部と奥の小さいのは貯水所です。

 

左側の内部です。2つの棲息掩蔽部は奥で繋がっています。

 

右側の床面にはレンガの囲いがあります。

 

貯水所です。貯水槽と濾過槽でしょうか。現役で使われているっぽいですね。

 

階段を上がると28㎝榴弾砲座ですが、左の道を下ると現在は駐車場となっている砲弾関係の施設広場に行けます。

 

左の道を緩やかに下ると、道沿いにが置かれています。

 

左が小便、右に大便室が6室です。

 

以上、三高山堡塁の兵舎周辺でした。次回は28㎝榴弾砲座を見に行きます。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第十九巻 広島湾要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「元工兵第3方面より 三高山堡塁建築の件」(Ref No.C03023114800 アジア歴史資料センター)

「広島湾要塞廃止に伴ふ防禦営造物処分の件(1)」(Ref No.C04015366800 アジア歴史資料センター)

「広島港要塞地域内陸軍用地管理換に関する件(2)」(Ref No.C04015344200 アジア歴史資料センター)

「防禦営造物除籍及堡塁廃止の件」(Ref No.C03022546200 アジア歴史資料センター)

「第2諮問事項に関する調査(1)」(Ref No.C10071718500 アジア歴史資料センター)

「第2諮問事項に関する調査(2)」(Ref No.C10071718600 アジア歴史資料センター)

「明治38年5月(1)」(Ref No.C13110591500 アジア歴史資料センター)