昨日紹介した防府北基地の南側に航空自衛隊防府南基地が置かれていますが、この基地の前身は防府海軍通信学校でした。

 

戦後米軍が撮影した空中写真で見るとこのような配置となっています。

(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス USA-M122-23を加工して掲載)

 

なお、施設の名称については「甲飛防通会名簿」を参考にしています。

 

 

それでは簡単に説明していきます。

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昭和5年(1930年)、無線通信術を教育する海軍通信学校が横須賀に開設されました。当初は海軍水雷学校内にあり、昭和9年に移転独立しましたが、昭和16年(1941年)12月に太平洋戦争が開戦すると戦線が太平洋全域に拡大したため、通信兵の大量養成が必要となりました。しかしながら現在の施設ではキャパオーバーだったので新たに通信学校を新設することになり、その地に選ばれたのが防府市田島でした。

 

昭和17年(1942年)3月から土地の買収を開始し、突貫工事にて11月に落成、昭和18年(1943年)5月に開校しました。なお開校とともに従来の通信学校は、横須賀海軍通信学校と改称されました。

防府の開校時の収容人員は3千人で、当初は新兵教育を修了した者を普通科電信術練習生として入校させましたが、7月には5千人、11月には7千人に膨れ上がり、新兵教育も行うことになりました。

 

昭和19年(1944年)7月、3千人の第14期甲種飛行予科練習生が入校してきました。彼らは飛行機の搭乗員になるための練習生でしたが、この頃になると戦局の悪化で十分な飛行教育を行うことができなかったため、とりあえず電信術教育を施すことになり、第1期甲飛電信術練習生として受け入れました。

その後、甲種は第5期まで1万2千人が防府で教育を受けましたが、予科練を修了しても通信兵や整備兵として出征したり、回天や震洋と言った飛行機以外の特攻兵器の搭乗員になるなど、彼らの多くは飛行機に乗ることができませんでした。

 

この他乙種予科練習生や海軍兵学校予科生徒を収容して教育が行われましたが、昭和20年(1945年)6月以降練習生の教育は中止され、本土決戦要員として防府警備隊が編成されたのち、8月15日の終戦を迎えました。

 

なお、海軍兵学校予科生徒を収容と書きましたが、これは昭和20年7月に長崎県の海軍兵学校針尾分校廃校に伴い防府分校が通信学校内に併設されたことによるものです。針尾分校は同年3月に開校して第78期生4千名を入校させたものの、九州方面の戦況悪化により7月に防府に移ることになりました。移転後の8月8日には空襲によって宿舎が消失したり、赤痢が流行して多くの生徒が苦しむなど、不運の中で終戦を迎えました。

 

終戦後は、連合軍の接収が明けた昭和30年(1955年)、小月で編成され防府に移転した第1航空教育隊が基礎教育を開始。昭和34年(1959年)に防府基地が南北に分立して今に至っています。

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それでは現地を訪問しますが、これまで外周を歩いただけで中には入ったことがありません。新旧の空中写真を見比べる限り、当時の建物はほとんど残っていません。本部庁舎や武道場の位置は今も昔も同じですが建て替えられているようです。

 

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※2023年6月3日の記念行事開催時に入場しました。

 

当時は正門、現在は東門から入場します。

 

当時から存在した真ん中を横断する川。

 

平成16年に南基地開庁50周年を記念して作られたモニュメントです。

 

説明書きにはこうあります。

 

「当基地は昭和18年に元海軍通信学校が開設された場所であり、その時に建設された建物は平成15年8月まで航空教育隊の本部庁舎として使用された。その名残を後世に残すため、礎石の一部を土台にした。」

 

モミュメントの後ろに本部庁舎が写っています。

 

兵舎や通信講堂が置かれた場所を見ています。

 

学生による観閲行進。

 

退役航空機が展示されています。F-104J。

 

F-1。

 

ブルーインパルスが記念行事開催に花を添えました。

 

以上が2023年6月3日に入場した時の写真でした。

 

基地内には甲種飛行予科練習生だった甲飛防通会の方々が建立した「甲飛防通記念碑」があるのですが、立入禁止区域にあったため見ることができませんでした。

なおその他記念碑は防府天満宮の境内にも置かれていますので次回紹介します。

 

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それでは基地周辺を歩いてみます。

 

西門付近に橋の欄干部だけ残っているのを発見。

 

ぎをんばし

 

昭和六年四月

 

戦前から存在したような建物にも出会いました。

 

防府海軍通信学校の南側の敷地は半分は企業が入っていますが、残り半分は工業団地として開発中のようです。

 

紀元二千六百年記念の石碑がありました。昭和16年5月建立。

初代天皇の神武天皇即位から紀元2600年にあたる昭和15年(1945年)には、国をあげてお祝いされました。

 

周辺散策は以上ですが、防府天満宮には関連した記念碑が建てられていますので、以下の記事をご覧下さい。

 

さて、冒頭に掲載した空中写真にも書き込みましたが、通信学校の周辺・敷地内には「呉海軍施設部防府出張所」の倉庫が複数置かれていました。建築工事関係の機械器具や資材が保管されていたようですが、史料に掲載の地図を見ると、倉庫の位置と共に多くの地下壕(防空壕)が書かれています。

これら地下壕が施設部のものなのか学校なのかは分かりませんが、今でもいくつかは現存していると思われます。ただ山の裾野には民家が並んでいますので、普通に確認することができませんが。住民の方々に声をかけてまで確認しようとは思いませんので、とりあえず見れる物だけ載せておきます。

 

では最後に、、。

防府海軍通信学校最後の校長は木村正福(まさとみ)中将でした。彼は昭和18年7月、第一水雷戦隊司令官としてキスカ島撤退作戦を指揮、米軍包囲下で孤立したキスカ島の守備隊約5,200名を無傷で撤収することに成功しました。奇跡の作戦の立役者だった木村さんは戦後、防府のこの地で塩田組合を設立し製塩業を営みました。

なお防府は江戸時代から三田尻塩田が築かれ、海軍通信学校があった場所も元々は塩田でした。

 

以上、防府海軍通信学校でした。

 

場所はこちらをクリック→→→

 

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[参考文献]

「甲飛防通会名簿」(甲飛防通会 1989)

「図説総覧 海軍史事典」(小池猪一編著 1985)

「防府市史 通史3」(防府市史編纂委員会、1998)

「呉海軍施設部防府出張所」(アジア歴史資料センター、Ref No.C08011153200)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」