今日は、昨日の防府海軍通信学校の記事に関連した記念碑を紹介します。

 

記念碑は防府市松崎町の防府天満宮に置かれていますが、防府市の遺構地図で場所を確認します。

 

防府天満宮の楼門。

 

防府天満宮は学問の神様として崇められる菅原道真公を祀る神社です。

道真公は宮中の権力争いで失脚して福岡の太宰府に左遷されましたが、その道中に国府が置かれた防府の地に滞在しました。その後大宰府に渡った道真公は903年に亡くなりましたが、薨去されたその日、防府の空では五色の光が射し人々を驚かせました。国司や住民たちは道真公の魂が光となってこの地に帰ってこられたと悟り、翌904年に酒垂山(防府天満宮後方、現在の天神山)に祠を建立しました。これが防府天満宮の創建とされており、当時は松崎の社号で松崎天満宮や松崎神社と呼ばれた時期がありましたが、戦後の1953年に防府天満宮と改称されました。

県内はもとより県外からも参拝者の多い神社で、元防府市民の私も初詣や受験時にはよく参拝しました(^^)

 

ちなみに防府天満宮は、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と合わせて「日本三大天神」と称されています。天神さまのおかげもあって私は京都の大学に進学しましたが、友人たちと北野天満宮に参拝した際、俺の地元にはこの北野天満宮とともに日本三大天神と呼ばれる神社があるんだぜ!」と自慢したところ、「防府天満宮?何それ?知らね。お前の地元だけで勝手に言ってるんだろ」と相手にされませんでした(-_-;)

あれから随分と経ちましたが、今では認知度もアップした、、、かな。

 

 

どうでもいいことはさておき、肝心の記念碑の紹介に移りますが、まずは予科練について簡単に説明します。

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予科練(よかれん)とは海軍飛行予科練習生および日本海軍の航空機搭乗員養成制度の略称です。高等小学校卒業で満14歳以上20歳未満の者を採用し、昭和5年(1930年)から教育が始まりました。

その後昭和12年(1937年)に、中学校4年1学期以上の学力を有する満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設け、従来の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められました。さらに昭和15年(1940年)には、下士官兵から選抜する丙種飛行予科練習生(丙飛)の制度を設けました。

修業期間は乙飛が3年(のち2年に短縮)、甲飛が1年2ヶ月(のち6か月に短縮)、丙飛が2ヶ月ほどで、修了後は飛行訓練生(飛練)として教育を受け、実戦に配備されました。

 

昨日の記事でも書きましたが、大東亜戦争3年目の昭和19年(1944年)になると、大量の予科練習生を採用する一方で十分な搭乗員教育を施すことができなくなったため、一時的に通信学校や電測学校などに入学させ、逐次搭乗員教育に移行することになりました。しかしその後の戦局の悪化で、卒業後は通信兵や整備兵、さらには航空機以外の特攻兵器の搭乗員として配属されていきました。

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以上が予科練の説明でしたが、防府海軍通信学校では昭和19年7月に甲飛14期を防通1期生として入校させ、その後終戦まで甲飛16期(防通4~5期生)を受け入れました。

対する乙飛は、23期相当が昭和19年8月に1期生、24期相当が昭和20年1月に2期生、2月に3期生として入校しましたが、防府天満宮に置かれているのは乙飛の2期生と3期生の記念碑となります。

 

こちらが乙種飛行予科練習生の記念碑となります。

 

まずは「防飛二期生の碑」です。

 

碑文を文字に起こします。なお判読不能の箇所は〇にしています。

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昭和20年(1945年)1月25日15歳前後の1千有余名の私達は、防府海軍通信学校第二期乙種飛行予科練習生として入校、ただひたすら厳しい練習に歯を食いしばり、空腹に耐え、夜半の遠い汽笛に望郷の涙をこらえた7か月であった。

その体験は、今も私達の中に生き続いている。

同級生〇〇で古希を過ぎた今、残れる力を有志相あわせて〇〇に、過ぎし日を偲び、恒久の平和を祈念し、〇〇の思いを込めて、この碑を建立する。

平成13年(2001年)春吉日 防飛二期生有志一同

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ところで、甲飛の練習生が集う会の名称は甲飛防通会で、防府通信学校のことを「防通」と略していますが、乙飛の記念碑では「防飛」としています。当時からこのように区別して呼んでいたのでしょうか?

 

続いては乙飛の3期生の方々が建てた「ああ、予科練」の記念碑です。

防府天満宮の宮司さんが題字を揮毫されています。

建立年は平成11年(1999年)。2期生より3期生の方が早く建てたのですね。

 

碑文の看板。

碑文を読むと終戦間際、教育訓練もそこそこに作業に駆り出されていたことが分かります。

 

3つ目の記念碑は「嗚呼 海軍少年電信兵之碑」です。

 

碑文です。

 

記念碑は海軍電信六十八期会が昭和58年(1983年)に建立しましたが、こちらの方々は予科練からの入学ではなく、正規(?)の海軍通信学校入学者です。

 

昭和5年(1930年)、無線通信術を教育する海軍通信学校が横須賀に開設。太平洋戦争が開戦すると戦線が太平洋全域に拡大したため通信兵の大量養成が必要となり、昭和18年(1943年)5月、防府に新たな通信学校が新設されました。

碑文を読むと、第68期生は昭和18年8月に入校、1年足らずで卒業して実戦配備されたようです。なお68期とは昭和5年の開校時を1期生として数えているのでしょうね。

 

 

記念碑の紹介は以上ですが、最後に防府天満宮の後方に聳える天神山(標高167m)に登ってみます。

登山道がありますので簡単に登れますが、正面の道から登ると山頂手前は岩場越えとなります(・∀・)

 

秘め穴なんて所もあります(*´Д`)

 

山頂は360℃ビューです♪

 

それでは防府市街地を眺めてお別れです。矢印が防府北基地と南基地です。

 

以上、乙飛予科練習生の碑/少年電信兵の碑でした。

 

場所はこちらをクリック→→→

 

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[参考文献]

「甲飛防通会名簿」(甲飛防通会 1989)

「図説総覧 海軍史事典」(小池猪一編著 1985)

「防府市史 通史3」(防府市史編纂委員会、1998)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」