今日は日本海海戦でのロシア兵漂着地のひとつ、萩市須佐(すさ)を訪れます。

 

海戦図にて須佐の場所を確認します。

 

日本海海戦についての説明はこちら→→→

 

須佐は日本海に面した山口県北東部に位置しており、大正期より旧阿武郡須佐町として町制を敷いていましたが、平成の大合併により平成17年(2005年)に萩市の一部となりました。

 

ロシア兵漂着の経緯を簡単に説明すると…。

 

日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃ち負かした明治38年(1905年)5月28日の夜、須佐湾の沖合いを進む不審なボートを発見したので船3隻で捜索したところ、ロシアの敗残兵であることを確認したので誘導して帰港した。

浜には情報を聞いて駆けつけた群衆がロシア兵を見るなり、「上陸させるな」「おのれ我が子の仇」などと怒号が飛び交う大混乱となったが、村長や巡査たちが「戦いは国と国であって一個人には恩も恨みもない、仁義の国の我が国民として、救いを求め助けを乞う者に不都合があって将来の物笑いの種になってはならぬ」と群衆を説得し、ロシア兵33名を法隆寺に収容することになった。

 

高山(標高533m)の山頂から見た須佐湾です。

 

法隆寺はこちら。

 

入口に置かれた看板に露兵収容のことが書かれています。

 

収容後の取り調べで、ロシア兵たちは日本の砲撃を受け大破した巡洋艦アウローラ(アヴローラ、オーロラとも呼ばれる)の乗組員であることが判明、郡の役所に伝えて指示を待つことになった。

収容中は村民が炊き出しで食べ物を振る舞ったり、夏みかんの食べ方が分からないロシア兵たちに皮むきを教えてあげたりと、最初は警戒していた両者の顔には次第に笑顔が出るようになった。また村民の中に子供を見つけたロシア兵は代わる代わる抱き寄せ、故郷に残してきた子を思って皆涙したと言う逸話も残っている。

収容から3日経った30日午前11時、下関水上警察から迎えの船が到着。出発の際にロシア士官から、温かいもてなしの御礼として愛用の双眼鏡1個が村に贈られた。(いつも間にか無くなってしまったので今は残っていない...)

ロシア兵33名は船に乗り込み門司の収容所に送られたが、彼らは港外に出て人影が見えなくなるまで帽子や手拭きを振って別れを惜しんだ。

 

この出来事を記念して、町の大実業家久原房之助の兄斎藤幾太の出資により、明治45年2月に法隆寺の境内に記念碑が建設されましたが、それがこちらです。

 

題字は日本海戦役漂着敵艦将卒収容地記念碑と彫られています。

 

揮毫は有地 品之允(ありち しなのじょう)海軍中将です。須佐かどうかは分かりませんが萩の出身で、長州藩士として戊辰戦争を戦いました。その後陸軍から海軍に転じて艦隊勤務を経て、日清戦争(明治27-28年)では常備艦隊と連合艦隊の司令長官を兼務しました。大正8年没。

 

記念碑の裏面には収容の経緯が彫られています。

 

以上、日本海戦役漂着敵艦将卒収容地記念碑でした。

 

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[参考文献]

・「須佐町誌」(須佐町、1993年)

・「萩ものがたり vol.7 萩と日露戦争」(一坂太郎著)