2年ぶりに石原岳堡塁を訪れましたので再訪記を書いていきますが、前回の探訪記でほぼ語り尽くした感があるので、適度に端折りつつレポートしていきます。

 

まずは履歴から。

◆起工:明治30年(1897年)10月21日

◆竣工:明治32年(1899年)12月31日

◆備砲:

・克式中心軸35口径10cm加農砲 6門(明治33年9月 備砲完了)

・9cm臼砲 4門

◆設置標高:77.10m乃至73.10m

◆任務:敵上陸兵の撃退、背後の面高堡塁、高後崎砲台及び港口の敷設水雷の掩護

◆経過:

・明治37-38年(1904‐05年) 日露戦争で動員下令

・大正2年(1913年) 要塞整理要領にて廃止

・昭和4年(1929年)6月14日 全部除籍

◆佐世保要塞の概略はこちら→→→

 

前回の記事(2020年9月13日)

 

石原岳堡塁は前回紹介した面高堡塁のすぐ近くにあります。歩いても15分程度かな。当時は両堡塁を行き来できる交通路が設けられていたようです。

 

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さて、堡塁跡地は石原岳森林公園となっていますが遺構を活かしつつ公園化されており、非常に良い状態で保存されています。

そして本堡塁の最大の見どころは側防匣室(こうしつ)が残っていること。他では見ることができないので大変貴重です。

 

なお匣室をカポニエールと称している記事が多いですが、明治期の史料では壕の外側(外岸)に設けられた匣室を「外岸側防匣室」、内側(内岸)に設置されたのが「カポニエール」と称されています。石原岳堡塁の匣室は外岸に構築されていますので、本記事では「外岸側防匣室」としました。

 

見取図です。

見ての通り堡塁は星形要塞です。外周に土塁を配し、さらに内部は土塁より高く盛られていますので、土塁を乗り越えて壕に入ってきた敵兵を瞰射するとともに、壕の外岸に置かれた側防匣室からの射撃にてバッタバッタとなぎ倒す防御スタイルになっていました。

 

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では遺構を見ていきますが、前回訪問は8月でしたが今回は2月。冬枯れ、しかも手入れ直後と言う絶好のタイミングで訪れましたので非常に見やすかったです。やっぱり探索は冬に限りますね(^^)

 

唯一の入口から堡塁中央部に入ります。

 

正面の階段を上がると砲座、階段下は掩蔽部が並んでいます。

この階段はどうやら造り直された物のようです。

 

右側。

 

左側。

 

まずは地下掩蔽部から見ていきます。

右側のスロープを下りると角っこに井戸のある小さな掩蔽部が設けられています。

 

そして9連掩蔽部です。ここまで並ぶと壮観です(・∀・)

そして前回紹介した面高堡塁と同様、ここもまた石積み主体の造りとなっています。

 

9つの掩蔽部のうち、右から2番目~7番目までの掩蔽部に第一號~第六號の番号が入口の上の御影石に刻まれています。写真は第三號掩蔽部です。

 

掩蔽部左端に左翼側防窖室への地下通路がありますが、これは後ほど。

 

階段を上がって進むと9M砲座Aがあります。なお9Mは9㎝臼砲の略です。

 

胸墻に設けられている即用弾丸置場の跡が確認できます。

胸墻は前面の石が剥がされてしまっていますが、残念なことに石原岳堡塁の砲座はすべてこのような状態になっています。

 

なお『現代本邦築城史』を読むと、本堡塁には10㎝加農砲6門3砲座と9㎝臼砲が4門4砲座があったと記録されていますが、探索で確認できたのは6砲座で1つ足りません。足りないのはおそらく臼砲砲座ですが、9㎝臼砲は車輪付きで移動が簡便にできる軽砲で、他の堡塁を見ると1砲座に2門配備が基本となっていますので、1門1砲座と言うのは少々疑問だったりします。

 

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次に一段上がって砲座が並ぶ高地に進みます。

 

こちらが10K(10㎝加農砲)の3番砲座です。前回は繁々で何も見えない状態でしたが、刈られて綺麗になったことで2つの五角形柱が確認できました。

10㎝加農砲は2門配備でしたのでそれぞれの五角形柱に据え付けたのかと思いましたが、それにしては2つの距離が近すぎるし、よく見ると素材が戦後物っぽい気がしますので遺構ではないかもしれません。

 

加農砲座の間には半地下式の砲側庫が置かれています。写真は第三號砲側庫です。

 

一番まともに胸墻が残っているのは10K/1番砲座です。

即用弾丸置場もちゃんと凹んで原形を留めています。

 

そして前回未確認な物がコレ。通気口ではないです。

位置的には右側の火砲を置いたと思われる位置にあります。今度こそ(?)据付部品ではないかと。でも左側の火砲の部分にはなくこれ一つです、、、。

 

9M/砲座Bを斜め前から見下ろしています。

3方向に対して射撃できるようになっていますが、臼砲の射撃だけではなく敵兵が迫った時は銃を持った兵士がここで迎え撃つことになっていたのでしょう。

 

東屋が置かれた横墻を挟んで9M/砲座Cがあります。

胸墻の石材はなぜ剥がされたのでしょうね。大東亜戦争時に別の陣地を構築するためなのか、それとも戦後なのか、、、。

 

Rをつけた立派な石垣です。

この石垣の右側は藪と堆積物が溜まっていますが、そもそも何かがあったような気がします。またこの石垣上の東屋の場所にも、観測所や砲台長位置が置かれていたのではないかと、、、。

 

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では地下通路を通って左翼側の側防匣室に向かいます。

今回は管理人さんがいたので電気を点けてもらいました(^^)

 

地下通路は緩やかに下っています。

 

100mほど歩くと突き当り。左右に部屋があるので階段が設けられています。

正面の凹みはカンテラを置くなど明かりを灯したのでしょう。

 

では右側の階段を上がります。

 

匣室の右部屋です。奥は待機所もしくは銃弾置場かな。

 

壁には6つの銃眼があります。

 

覗いてみた。

遊歩道が見えますが壕になっているので逃げ場がありません(;゚Д゚)コワー

 

なお左の部屋も同じ作りなので写真は割愛して、、、逃げ場のない壕の中を歩いてみます(^^;

 

左が外周の土塁、右が堡塁内部。そして正面には匣室。土塁を乗り越えて壕に入ると、横から側防匣室、右上からは撃ち下ろされて逃げ場がないのがよく分かります。

 

先ほど中に入った外岸側防匣室を外から見ています。

2部屋で2方向をカバーしています。銃眼の手前には窪みが作られています。

 

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続いて右翼側の側防匣室を見てみます。

右翼とは違って右隅にある扉から中に入ります。

 

部屋の中は同じです。

 

以上、石原岳堡塁再訪記でした。

 

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[参考文献]

「現代本邦築城史」第二部 第七巻 佐世保要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)