後編では24㎝加農砲座から9㎝速射加農砲座、地区砲兵司令所を見ていきます。
見取図です。
1番砲座にあがる階段です。奥には観測所の付属室があります。
1番砲座です。前方を見ていますが胸墻となるレンガ・石積みなどは見当たりません。
よく見ると伝声管の土管が残っています。
どうやら胸墻として設けられていた構造物はすべて剥がされてしまっているようです。すべての砲座がそんな感じでした。
1番砲座前方に埋め込みの方形コンクリートの桝があります。水槽?
1番と2番の間に置かれた砲側庫①です。
半地下式で、両側から階段で昇降するタイプです。だいぶ埋もれていますね。
内部です。前編で見た棲息掩蔽部と同じく出入口の壁が壊されています。
24㎝加農砲座は6つ、弾薬置場となる砲側庫は5つありますが、すべて同型のようですので、2番以降は適度に端折って紹介します。
2番砲座は砲床部分に凹みがあり、円形コンクリートの一部が確認できます。
3番砲座にあがる階段。この階段も1つ1つの砲座にもれなく配置されています。
5番砲座は通路建設で壊されています。
この先に航空灯火の施設が作られたようですが現在は廃止されています。
見てきた方向を振り返っています。きれいに横一線ですね。
砲側庫⑤は埋もれて中に入れません。
6番砲座にだけ正面に階段が設けられています。
戦後物の臭いがします。
6番砲座の左隣に左翼観測所があります。その付属室です。
内部には右翼観測所の付属室と同様に2つの穴が開いています。
右が6番砲座、左が観測所に繋がる伝声管と思われます。
付属室の上に観測所があります。
右翼観測所では通路が壊されていましたがこちらは残っています。凹み部も確認できますね。
観測所を斜め前方より見下ろしています。
武式測遠機の丸い台座が残っています。右翼観測所には応式測遠機の角柱台が併設されていましたが、こちらは確認できません。
観測所右側に、小隊長もしくは砲台長の指揮位置が置かれています。
右翼の物と同様に、中には5つのお立ち台の石が置かれています。
なお史料によると、この左翼観測所から南東方向に置かれた地区砲兵司令所に道が繋がっているようですが、激ヤブなので歩けませんでしたので、後ほど斜面を上がって見に行きます。
それでは左翼観測所から下りて9㎝速射加農砲座に向かいます。
1門1砲座で2つの砲座がありますが、元々の配備は9㎝加農砲で、その後斯加式9㎝速射加農砲に換装されたのではないかと思われます。
正面が9速加の2番砲座です。その手前は広場になっています。地面に排水溝?と思われる窪みが砲座方向に伸びているのが見て取れます。
広場には瓦礫が散乱しています。史料ではこの場所に砲具庫が置かれていたので、その瓦礫でしょう。
2番砲座の前方を見ています。
24加の砲座と同じく胸墻のれんがor石積みは剥がされているようです。
1番と2番砲座の間の砲側庫です。
1番砲座の胸墻、、、絶対剥がされますよね、コレ。
それでは先ほどヤブで道伝いに行けなかった地区砲兵司令所を見てみます。
1番砲座後方から見上げると石柱が見えましたので斜面を這い上がります。
上がってみました。石柱は転落防止用の杭なんでしょうかね。
地区砲兵司令所の遺構です。掩蔽部があったようですが壊されています。
分厚い無筋のコンクリートですね。
観測室があります。
鷹ノ巣高砲台に残る砲兵司令所は石造りで神殿のような出で立ちでしたが、こちらはコンクリート造りとなっています。
参考まで。
なお地区砲兵司令所は、能美地区はココ鶴原山に、宮島地区は鷹ノ巣高砲台の敷地内に設けられた物が現存しています。
史料では、早瀬地区(早瀬第一堡塁内)や呉地区(高烏堡塁内)にも設置に関する記述が見られますが、遺構が残っていないので実際に設置されたかどうかは不明です。
砲兵司令所からおそらく左翼観測所に繋がる道筋が見えたので歩いてみましたが藪がひどくなり撤退。堡塁内に戻り、最後の遺構の場所に向かいます。
矢印の所に山側を石垣で囲われたスペースがあります。ここには弾廠、装薬調整所、炸薬填実所が置かれていたようです。
石垣です。このスペースには戦後何らかの施設が置かれていたようで、金網が施されています。
ここを後にして先に進むと、手押しポンプが落ちていた井戸の場所に戻りました。
これで堡塁を一周しました。
以上で鶴原山堡塁のレポートは終了となります。
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[参考資料]
「現代本邦築城史」第二部 第十九巻 広島湾要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)