筑前大島は福岡県宗像市沖6.5㎞に浮かぶ島ですが、島の西側が玄界灘、東側が響灘と、2つの海域を分ける境界に位置しています。

島内には陸軍の下関要塞大島砲台が設置されていましたが、本項で取り上げる海軍の防備衛所は、対馬海軍警備隊の派遣隊として島の北西端に築かれました。

 

(対馬海軍警備隊の概略はこちら→→→

 

対馬警備隊の地図で筑前大島の場所を確認します。

 

陸軍の下関要塞大島砲台についてはこちら。

 
筑前大島防備衛所は、配備された九七式水中聴音機3基を用いて島の西側海域(玄界灘側)の対潜哨戒を行うことが任務でした。
前回紹介した小呂島防備衛所と同様に、当初は佐世保防備隊に属しており、昭和17年(1942年)10月に『戦時日誌』に登場します。その後、大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)5月頃に開隊された対馬警備隊に編成されますが、ほどなくして終戦を迎えました。

 

では防備衛所の見取図を掲載します。

部屋の名称については『引渡目録』に従い割り振っています。

 

探索して遺構を確認できたのは、衛所周辺のコンクリート基礎とその後方にある水槽だけです。衛所から北に下った先にあったはずの兵舎や発電所も探しましたが、藪が深く何より人目につく場所でもあったので入念に探索することができませんでした。

 

では遺構の場所に向かいます。

大正15年(1926年)初点の灯台から回れ右をして岬の先端を目指します。

 

しばらく歩くと、標高62mピーク手前に水槽が現れます。

この周辺に揚水ポンプの発動機室があったと思われますが見つけることができませんでした。

 

ピークに上がると窪地があります。

 

そして岬の先端には衛所の跡と思われる遺構が残っています。

 

衛所の建物の前方から見ています。部分的にコンクリート基礎が残るのみです。ここの衛所は前回紹介した小呂島防備衛所のようなコンクリート建物ではなく木造でした。木造の衛所はやっぱり残っていませんよねぇ。

 

建物の前方右の基礎部分。レンガ積みモルタル塗りですね。

この前方の区画が聴音室と思われます。

 

建物左側の区画。見取図では電池室としていますが定かではありません。

 

上記写真の2か所くらいしか地上に露出していませんでしたので、地面の枯れ葉や土をせっせと掃った結果、建物の間取りが把握できるくらいの基礎を発掘(?)しました。そのコンクリート基礎は『引渡目録』に掲載の略図とほぼ合致しましたので、とりあえず満足です(^^)

 

なんとなく区画が分かりますよね?

 

2本の基礎が走っていますが、廊下部分であったと思われます。

右側区画が聴音室、左側が指揮兵員室です。

 

金具が残っている部分もありました。

 

そして、最大の発掘品?はコレ。

 

1m四方の方形コンクリートに、4つのアンカーボルトとダンベルのような凹みが見られます。何かの機器を設置した台座でしょうか?

 

この遺構は衛所の左側にあります。

周囲の地面も掃ってみましたが、他には何も見つけることができませんでした。

 

衛所の後方にがあります。

大の便槽かな。

 

手前が小の便槽だったかと。

 

この後衛所から斜面を少し下ってみましたが何も見つけることができませんでしたので、遺構は以上となります。

 

灯台に戻って防備衛所の場所を見ています。

 

赤が衛所のあった場所です。また青の矢印部分は、寛永年間にキリスト教神父が隠れ住んだと言われる三浦洞窟があり、その場所まで遊歩道が設置されています。

 

洞窟への遊歩道から衛所のあった山をより近くで見ています。

 

少し内陸側にカメラを向けて鞍部を撮影しています。

 

おそらくこの谷部分にに兵舎などの棲息施設があったと思われますが、藪っているのはもちろんこと、このように遊歩道からも丸見えなのでウロウロしていたら怪しまれること請け合いです(^^;

 

以上、筑前大島防備衛所でした。

 

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[参考文献]

「4 派遣隊所在各地区(15)筑前大島派遣隊」(Ref.C08011400600、アジア歴史資料センター)