清く暮らす人は生活し難い? | 満願寺窯 北川八郎

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釈尊はいわれる


恥を知らず 烏のように厚かましく 図々しく 人を責め 大胆で心の汚れた者は・・・生活し易い。

恥を知り 常に清きを求め 執着を離れ 慎み深く 真理を見て暮らす人は・・・生活し難い。


世間は広く 釈尊のいわれるような人を ある職業の人々に見かける。

恥を知らず 厚かましく 人を責めるが悪評を気にしない不思議な人たち。そういう人たちの多くは 大きな家 大きな車 たくさんの金銭に囲まれて生きている。


しかし 家にも車にも 地位にも財産にも恵まれているのに その人たちの顔は恐く 目が鋭く声が大きい。長く付き合う魅力はない。ただ恐いだけ。でも その人たちに付き合ってみると その人たちはいつも何かを恐れ家族は緊張し 穏やかな家庭は少ない。笑顔と笑い声が響く家庭ではない。その人たちは心からの笑いもなく 敵対するグループや会社との対立と非難と攻撃に心はゆがみ 体は震えてくる。失うものも大きい。その人生の徳がこぼれ落ちて汚れがついてくる。


逆に平和に生きたい人々は 日ごろ静かな人が荒ぶると目立ち 信を失うのを見て 心して目立たなく生き 世間にもまれる事を嫌って片隅に安住するので評価され難い。

正直な人は 自分が正直である事にすら気づかず 穏やかに生きる。

これは 釈尊の時代から2500年経っても変わらないらしい。


いつも厚かましい人が 少し善行をすると あの人もいい人なんだ 平凡な面もあるのだと周りが安心する。


釈尊がこんなことまで言及しているのがおもしろい。

いつの時代もその部分は似ている。ところが執着を離れた人は 生活が困窮してもそこで混乱しない。顔をしかめ 大声で自分を売らないのだ。


孔子が旅の途中に兵乱に遭い きわめて困窮したことがあった。

そこで弟子の子路が

「道の君子でも こんなに食うに困るようなことに遭遇するとは!」

と孔子に嘆いたところ

「人の道 教えの道理に窮したのではないから心配するな。ただ 今は貧に困窮しているだけである。何ら恐れる事態ではない」

と自若(ゆったりと構えていた)としていたという。


大切なことは生活の向上よりも 心の向上こそ目ざすもなのだ。貧は恥ではない。貧を嘆く心が悲しい。そこで 人の道にはずれていなければ顔を天に向け 破れズボンでも私は恥ずかしくない。清潔で洗い立てのシャツがあればいい。


いつも信を基とし 嘘を少なく 人々の役に立つ生き方をしていれば 貧もトラブルも恐くない。なぜならそれ等は やがて消えて天と人々の援助が必ずくるからだ。


正しく ごまかしと嘘の少ない今の道を行け。



満願寺窯 北川八郎


高木書房「あなたを不安から救ってくれるお釈迦さまのことば」より

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