羅漢拳  第32回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第32回
「松田政男が何か落ち込んでいた事は確かだと思う。太田原善太郎も言っていたじゃない。元気がないようだったて。」
「でも、半年前にはうちの高校で将来の展望も含めて講演もして行ったというじゃない。わずか半年でそんなに元気だった人間が元気がなくなるという事があるのかしら。」
「そもそも、松田政男の開発した新薬ってどんなものなんだろう。僕もひとみもまだその事について知らないのですが江尻さんはどう思いますか。普通の薬局で売っている薬なんですか。」
江尻伸吾はここで自分の持っていたナイフとフォークをきちんと目の前のテーブルに置かれたナプキンの上に置くとテーブルの上に用意されている三角に折り畳まれた別の紙ナプキンを取り出して自分の口を拭った。
「村上弘明殿、貴殿がミーの犯罪捜査装置開発研究所に来たとき松田政男の同僚の矢崎泉という人物がいて彼と松田政男氏は秘密の研究所で机を並べていたということを言っておったでごじゃるな。」
「ええ、その人とは彼が日本に来たとき松田政男氏のことを聞いたことがあるんです。」
「矢崎泉、その人はその後何か新しい事を貴殿に伝えたかな。」
「日本に来日していたとき彼から松田政男氏の事で何かわかったことがあったら連絡してくれるように頼んでいたんですが連絡がとれないんですよ。」
「ちょうど良い時間じゃ、今頃向こうは昼時でござろう。その代わり今晩の夕食代はすべて吉澤氏が持ってくださるのじゃぞ。この添え物の野菜アラカルトの油炒めが美味でござるなぁ。」
江尻伸吾はこのハンバーグレストランの食事代もすべて村上弘明たちに払ってもらう気でいるようだった。大阪府警で要職をしめている割にはみみっちい江尻伸吾であった。江尻伸吾はテーブルの下の自分のかばんの中から何かを取りだした。それが特殊な犯罪捜査の道具ならよかったのだが彼が取りだしたのは明らかにどこにでもあるような平凡な携帯電話だった。
「これで電話をかけるでござる。」
江尻伸吾の目の中の瞳は輝いていた。
「ミーとしたことが、忘れていたでごんす。」
江尻伸吾はそう言うとかばんの中からまた何かを取りだした。
「これをはめていて欲しいでござる。これをつければミーの会話が聞こえるでごじゃるでしょう。」
江尻伸吾は村上弘明と吉澤ひとみの二人にヘッドフォンのようなものを手渡した。
「拙者は今晩の食事代を払っていただけるのでござるから、このくらいの事はしなければならないでござる。」
村上弘明も吉澤ひとみも江尻伸吾に言われたように耳にヘッドフォンをつけた。店の中には村上弘明をのぞいて客は居なかった。カウンターのところで帳簿をつけていたこの店のオーナーはどこに行ったのか、いなくなっていた。
「ハロー、ハロー。」
江尻伸吾の電話は英語で始まった。という事は相手は英語圏内の人間だという事か。
「出ましたでがんすよ。」
江尻伸吾が耳に当てていた電話機をはずして吉澤ひとみの方に目配せをした。吉澤ひとみは江尻伸吾が誰に電話をかけるかわからなかった。ある程度誰にかけるか予想はついたが何故江尻伸吾がその人物に連絡をとれるのか可能性は低いと見ていた。しかし江尻伸吾のわけのわからない発明品といい、あの工場に来ていた事などを考えるとその可能性もなくはないと思う部分もあった。
「大阪府警の江尻伸吾でごんす。」
「江尻さんですか。」
電話の向こうの声は眠いようだった。
「矢崎泉殿、この前の電話で貴殿に松田政男氏の開発した新薬の事を調べて頂きたいという事をお願いしてござったがその後の展開はどうなっているでごんすか。」
「あっ、江尻伸吾さんですか。ちょつと待ってください。メモ用紙を持ってきますから。松田さんの開発した新薬について調べた事をメモに取っておいたんです。それを今、持って来ますから。」
電話に出た相手は矢崎泉だった。電話をテーブルの上にでも置いてそのメモというのを取りに行ったのだろう。村上弘明は連絡が取れなくなっていた矢崎泉にどうやって江尻伸吾が連絡を取る事が出来たのか不思議だった。それ以上に今、アメリカに居るだろう矢崎泉が思った以上に江尻伸吾に協力的になって松田政男の開発した新薬に関した事を調べているのか理解できなかった。しかし現実に矢崎泉がこう言った個別の案件について調べているという事は江尻伸吾が何らかの方法を使ったに違いない。再び堅いものの上で堅いものが転がったようなごろりという音が電話機から聞こえた。
「今、メモ用紙をとって来たところです。」
矢崎泉が自分の調べたことについて書いてあるメモ用紙を持って来たようだった。
「松田さんが開発した新薬は日本国内では発売されていないと思います。それだけではなくアメリカでも一般に発売されていません。」
それでは何故松田政男が急に裕福になったのだろうか。
「松田政男さんは日本いたとき熱によっても流動性のあまり変わらない油の化学式を発見しました。その特許でそこそこに潤ったのですが次に発見した化学物質によって大きな成功をつかむところでした。しかしその化学物質は日本でも海外でも市販はされていません。RD156という医薬品に姿を変えているはずです。このRD156によって松田さんは大きな収入を得るつもりでいたようです。この薬品を松田さんが開発したのが1999年の一月です。ここからの話は仲間の研究者からの噂話を集めた結果ですが」
今度は紙が握りつぶされるような音が受話器の向こうから聞こえた。矢崎泉はメモを取っていたのだろう。きっと仕事の合間にその事をやっていたので忘れてしまうと思い、その行為をやったのかも知れなかった。
「まず最初に温度によって粘性の変わらない油の分子構造の決定に関する特許は1997年の三月に行っています。そのときの研究は日本のF社に入っているときになされましたが、社内の研究所でなされた発見だったので特別手当と昇級、昇格を手に入れたようです。しかし特許料等の大部分は会社側に所属していたのであまり松田政男さんは潤わなかったようです。それでアメリカに渡る事にしたようです。アメリカの非公式の研究所でデトロイトのそばにサーニアという研究所があるのですがそこは非営利のある財団が運営している研究所で国家の利益に関する化学の研究がなされているという噂です。松田さんはそこの主任研究員になり、1998年の一月にある新薬RD156を開発しました。それが軍隊に採用されました。それで大きな特許料を得る予定だったようです。」
そのところでヘッドフォンを使って横で聞いていた村上弘明は思わず声をもらした。
「ある新薬。」
しかし送話器をつけていない村上弘明の声が矢崎泉に聞こえるはずもなかった。
「矢崎泉殿、その新薬というものがどんなものなのかご存知かな。」
村上弘明は最初気づかなかったが江尻伸吾の手元のところで録音機らしいものが動作していることに気が付いた。
「向精神薬らしいですよ。兵隊が戦場に立ったときその薬を服用すると恐怖感がなくなるそうです。そして痛みに関する感覚が麻痺してけがをしても痛みを感じないそうです。軍の内部ではその薬の名称はRD156と呼ばれているそうです。その開発によってそれが軍に採用される事によって松田さんは大部潤おう予定だったようです。」
しかしそれでは単なる松田政男の成功物語で終わってしまう。わざわざ日本に戻って来る理由がなくなってしまう。しかし1998年の一月にその新薬の開発に成功して大きな報酬を得たとすれば同じ年の七月に矢崎泉に意気揚々とした電話をかけて来たことがどういう意味があるのだろうか。そのとき松田政男は学会が大騒ぎをするような学説を発表すると矢崎泉に言っている。矢崎泉の話によるとそれは生理学に関した学説らしい。化学と生理学、違うものではあるが接点が多いにある事はあるが。
「ミーの思うところ、それでは松田政男殿がわざわざ日本に帰って来る必要もござらんではないでござるな。アメリカでプール付きの豪邸に住めばいいでごんす。」
「それがですね。それを試験的に使ったところ副作用が起こったらしいんです。約二十人の試験者にそれを服用させたところ気が違ったように走っている車にぶっかって行って死んだ試験者とか宝くじを買おうとして並んでいたときに急に他人に殴りかかった試験者などが居たそうです。それでその新薬の軍での採用は中止になつたそうです。その薬の副作用が出て採用が中止になって松田さんのところには入るものも入らなくなったそうです。知り合いの研究者が松田さんにその頃、接触していたんですが落胆していたそうです。それでそのRD156には大部思い入れがあったようですよ。必ずRD156は改良できるはずだとか言っていたそうです。具体的にどうやればその薬が改良できるかと言うことについては何も聞かなかったそうですが。その薬の採用の中止になったのが1999年の六月だそうです。」
村上弘明も吉澤ひとみもそれで納得した。松田政男が故郷のなまずひょうたん池を訪ねたのは1999年の七月だ。松田政男の中学時代の事は全くわからないがなまずひょうたん池やアンテナ公園山には彼だけしか知らない思い出があるのだろう、新薬の採用中止とそれで大きな収入があるはずのものが入って来ないという事は松田政男を意気消沈させたに違いない。その傷心した心を慰めるためにも生まれ故郷にふらりとやって来るという事は充分考えられる。太田原善太郎が見た姿はそのときの松田政男だったに違いない。しかしその目的は果たしてそれだけだろうか。若干の疑問が残るには残るが。
「RD156の副作用ということでごじゃるが、具体的にはそう言った事例があったという事だけでごじゃるのかな。」
「私が聞いた話ではそう言ったことになっています。」
「矢崎泉殿、引き続き良い情報があったら連絡してくだされ。デトロイトの晩夏はどうでごじゃるかな。ヒューロン湖で休みの日にはボート遊びでも楽しんでくだされ。」
そう言うと江尻伸吾はまたあごのあたりをさすった。そして矢崎泉への電話を切った。その経緯はすべて江尻伸吾の持っている簡易電子素子式の録音機に記録された。
「以上でござる。大部参考になったでござるかな。」
「松田政男ってアメリカで軍のために戦闘用の麻薬のようなものを開発していたんだ。」
吉澤ひとみが重要な事がわかったというかわりにそう言って驚きの声を上げた。村上弘明も同意した。ここである程度松田政男の経歴というもののおぼろげな線も見えて来た。まず松田政男は化学の大変な秀才として学生生活を終わる。そのときの彼は結果を出すことにあせっていた。まず名前のわからない秘密の研究所に入ってそこで矢崎泉たちと机を並べる。しかしそこでめぼしい成果は得られなかったのだろう。そこを出てから石油プラントの開発会社と提携しているF社に入って粘度が温度に依存しない分子構造式に関しての特許をとってそこそこの経済的成功を収めたようだ。しかし、それでは飽き足らなくてアメリカの軍関係の研究所に新たな活動の場を設ける。そこで戦闘において戦闘員が恐怖心がなくなり、痛みを感じなくなるという新薬を開発する。開発に関する経緯はわからない。そこで松田政男は多くの収入と確固とした地位を手に入れるはずだった。しかし試験段階において被験者の異常な行動によって試験は中止され、軍にその薬が採用される可能性はなくなった。その事が原因なのか、松田政男はふらりと日本に舞い戻って来て故郷の湖の周辺をぶらぶらと過ごしている。さらに自分の開発した薬を改良して軍に採用されるようになる日のことを夢見ていたという。また1998年の七月にはかなり興奮して学会をあっと言わせるような新学説を発表するというようなことを矢崎泉との電話の中で言っていたという。
「私、何故かひっかかるのよね。松田政男が矢崎泉さんに電話をしたとき、1998年の七月のことなんだけど随分と興奮して今度、学会をあっと言わせるような学説を発表するというような事を言っていたこと。それに何故、国防省が松田政男の開発したRD156の採用を中止したかということ、単に試験中に二人の人間が異常な行動を示したということだけかしら。」
「そうでごじゃるよ。松田政男殿の開発した新薬はまったく使い物にならなかったでごんす。」
江尻伸吾はあほくさいというように自分の開発した電子素子式録音機をそそくさとかばんにしまった。吉澤ひとみは江尻伸吾が自分の質問に真面目に答えていないようなので少しつむじを曲げたようだった。その二人の様子を横目で見ながら村上弘明はあることが閃いた。そのことを彼はずっと忘れていたのだ。江尻伸吾がここにいなければ思い出さなかっただろう。初めて江尻伸吾の犯罪捜査装置開発研究科を訪れたときにある約束をしていたのだ。江尻伸吾が飯を食って満足気な表情であとは村上弘明に自分の食事代を払ってもらうだけだという態度をあらわにして席を立とうとしているので彼に声をかけた。
「江尻さん、ほら、覚えていますか。あなたの犯罪捜査装置研究室を最初に訪れたときあなたに頼んだ事がありますよね。」
「頼んだこと。」
「頼んだこと。」
江尻伸吾と吉澤ひとみは同時に声を出した。
「手帳を渡しましたよね。」
「手帳とは何でござる。」
江尻伸吾はしばらく考えていたようだったがすぐに思い出した。
「ミーに言わせれば、手帳ではないでござる。正確には手帳の写しでござる。あの怪しい部分を解読するようにとの申し込みでござったな。ふはははは。あんなのは全然暗号でも何でもないでござる。きっと他人に見られるのがいやだったので怪しい文句を書いていたのでござるよ。ふはははは。すぐにあんなものは解けたでござる。」
その一言には村上弘明の自尊心は多いに傷付けられた。もっともそれを解こうとして努力もしなかったが。
「江尻さんにはすぐ解けたんですか。」
吉澤ひとみが聞くと江尻伸吾はまたあごをさすった。かばんの中からまたくちゃくちゃになった紙を取りだした。その紙をテーブルの上に置くとしわを伸ばし始めた。
「わけの分からない文面というのは。」
そう言って江尻伸吾は指先でその手帳の文面を追って行った。
「この部分でごじゃる。このおまじないのような部分でごじゃるよ。」
十月十一日
 こてにきうけおでぃう
「どこからどう見てもこれは意味をなさない。そこで拙者はこれは換字法であると見たのでごじゃる。つまりこの場合、両方とも日本語のひらがなを組み合わせて一つ一つのひらがなが他のひらがなに置き換わっていると見たのでござる。たった十個のひらがなでごじゃるが一つのひらがなに一つのひらがな、そうやって可能性のあるものを調べていっても大変な数になるでごじゃる。そこでこの手帳の中に書かれている事でおかしな部分を調べるのでごんす。きっとそこにこの暗号を解く鍵があるでごんす。この手帳の文面を最初から読んで行くと。」
吉澤ひとみは江尻伸吾の横に座っていたのでしわくちゃな状態から広げられた紙を横から見る事ができた。
「ここがおかしいわよ
新しく開発された口紅を購入、使用感は少し愛嬌が出るので満足。どちらかというと堅い感じだと言われるのでイメージを変える効果があるかもなんて、口紅なんて言っているのはおかしいわよ。日記に口紅の事なんて普通書く。」
「ひとみは気に入った買い物をしたとき、そのことを書かないのか。」
村上弘明が横から口をはさんだ。
「口紅の事なんか書きません。」
吉澤ひとみは口を尖らせた。
「では、村上弘明氏はどこがおかしいと思うのでござるのかな。」
江尻伸吾は兄弟げんかをしている二人を苦笑いしながら言った。
「僕はここがおかしいと思うな。この部分だよ。ここ、ここ。今、評判のラ・フォンテーヌで食事をとる。デザートはなかなか気に入る。料理法を知りたいと思い、店主に聞くとポイントを教えてくれる。簡単に教える。云々という部分。」
村上弘明がさらに吉澤ひとみの後ろから身を乗り出して江尻伸吾の前に置かれている紙に手を伸ばした。報道探検の顔もほとんど子供同然だった。
「村上弘明氏は何故この部分がおかしいと思うのでごじゃるのかな。」
「そうですね。このレストランの名前ですね。ここが何か鍵を握っているのに違いありませんよ。だいたいこんなラ。フォンテーヌなんて言うもっともらしい名前のレストランが大阪にありますか。」
「ラ。フォンテーヌ、フランスの詩人でごんす。表現においては簡素な形式と自然を重んじ、思想としては良識を中心におく古典主義の詩人でごんす。その名前がおかしいと。」
「電話帳がここにあればいいのになぁ。そうすればこの店があるかどうかはっきりとしますよ。」
江尻伸吾は物わかりの良いじいさんが孫を諭すようにうんうんとうなずいた。その姿はまるで森の中の動物が頭を下げているようだった。
「しかしでござる。村上弘明殿のご意見は残念ながらはずれでござる。電話帳を調べれば大阪の御堂筋にその店はあるでごんす。実際にミーもその店に行って鴨のなんとかかんとか言う料理を食べたでごんす。しかしでござる。村上弘明氏の着眼点はなかなか良いでござる。」
「ヒントぐらい教えてくれない。」
吉澤ひとみは再び口を尖らせた。すると江尻伸吾はテーブルの上に置いてあるメニューを右手の人差し指と中指ではさんで回転させた。メニューは半回転だけしてまた立った。そのメニューは下の台がついていてテーブルの上に垂直に立っていたからだ。すると今まで献立の書いてある面が裏側になり、コンピューター性格診断の案内が出て来た。テーブルのそばには別の入れ物があり、その申し込み用紙も置いてある。よく家族向けのレストランなどに置いてあるシステムである。
「性格診断テスト。」
吉澤ひとみが不審気な声を出した。村上弘明もそれがどうこの暗号らしいものを解く鍵になっているのか、予想出来なかった。
「この性格相性診断テストの用紙に何かを書いて申し込むと答えが出るというわけですか。」
「ノン、ノン。」
江尻伸吾はきざったらしく人差し指を立てて胸の前で振る姿は車のワイパーだ。
「その横を見て欲しいのでごじゃる。この性格相性判断コンピューター試験の横に何か書いてごじゃるでごんす。」
書いてあるという表現は正しくはなく、はさんであるという言い方が正しい。メニューもこの性格相性判断テストの説明書も二枚のアクリル板に挟まれているからだ。
「書いてあるって、カレンダーが挟まっているだけですよ。」
アクリル板の間にはメニュー、コンピューター性格診断の説明書、今年のカレンダーの三種類の印刷物が挟まっている。
「あっ、わかった。」
吉澤ひとみはそのことに気づいたようだった。
「兄貴、見て、見て。下谷洋子の手帳の最初の方、ほら、この部分よ。」
そう言われて村上弘明は改めてこの手帳の最初の部分を見た。それがどうこのカレンダーと関わっているというのだろうか。手帳の最初の方にカレンダーと関連出来る部分と言えば最初の下谷洋子の生年月日しかない。
「ほら、兄貴、見て、見てよ。下谷洋子の生年月日、昭和四十五年三月十二日、土曜日となっているでしょう。これが正しいと言える。私の高校の美術の先生がいるんだけど彼女下谷洋子と一日違いの誕生日なの。昭和四五年の三月十一日。新聞部で彼女にプレゼントをあげるために彼女の生まれた日の新聞の縮刷版を調べたことがあるのよ。そうしたら何曜日だったと思う、日曜日だったの。」
「と言うことは下谷洋子が自分の生年月日を手帳に記しているがその記述は正しくないということか。」
では何のためにそんなでたらめな生年月日を手帳に記したのだろうか。これこそがたぶん自分の覚え書きとして大事なことを忘れたときにそのことを思い出すために必要とされる手がかりとなっているのではないだろうか。
「吉澤ひとみ氏はよく気づいたでごんす。これは全くでたらめな生年月日だと言わざるを得ないでごんす。昭和四十五年三月十二日、この日付を見て何かおかしいと感ずる部分がないでごんすか。正しい事がただ正しく書かれているなら何のヒントにもならないでごんす。そこにほかのものと違う部分がなければそこがヒントだとは書いた本人自身も気づかないでごんす。つまりその手帳の中の部分に限ったときその内容で他の部分と矛盾する部分はないかとまず探したでごんす。これがまず論理的な矛盾を探す最初の段階でごんす。次にもう少しその世界を広げて時間的には一年以内、空間的には関西以内でこの手帳の文面の中に矛盾がないか調べたでごんす。それでも矛盾は出て来なかったでごんす。そしたらさっきの村上弘明氏の指摘したレストランは確かに大阪市内にあったでごんす。しかし栗の木市の中だけに空間の範囲を限定していたら判断不能もしくは矛盾の判定が出ていたでごんす。そして今度は時間を過去五十年以内に広げたとき矛盾が出たでごんす。それが昭和四十五年三月十二日の項目であったでがんす。これは実はミーが見つけたのではないでがんす。最近完成した偽造文書発見装置第六号の成果でごんす。村上弘明氏も吉澤ひとみ氏も気づかなかったかもしれないでごんすが、広域通信盗聴装置の神山本次郎のすぐ横にその機械は置いてあったでざんす。それにこの手帳の情報を入力したら数秒で結果は出て来たでごんす。わかりにくいならこれを数字に直してみるでごんす。すると45312と1から5までの数字が順番が違うのでごんすがすべて並んでいるでごんす。この5という数字にひらがなと何か意味があるという事は明らかでごんす。あいうえお、これは五文字でごんす。かきくけこ、これも五文字でごんす。これをローマ字で書けば、a、i、u、e、o`  ka,ki,ku,ke,koとなるでごんす。aが1、iが2、uが3、eが4,oが5にあたっているとすれば12345と書いてあればaiueoということになるでごんす。仮に45312と書いてあってこれをあいうえおと読ませるとするなら12345と書かれたときにはこれはえおういあと読ませるということでごんす。だから45312という世界に生きている人があいうえおと言ったら12345という世界に生きている人にはえおういあと聞こえているはずでごんす。」
「じゃあ、江尻さん、かきくけこと言った人の言葉は違う世界の人の言葉としたらけこくきかと聞こえるのね。もう江尻さんの言いたいことはわかったわ。この呪文のような言葉、こてにきうけおでいうというのはko te ni ki u ke o de i uであがえ、いがお、うがう、えがあ、おがいに当たっているから、この呪文のような文句は ki ta no ko ka i do u、つまりきたのこうかいどう、喜多野公会堂となるんじゃない。喜多野公会堂って私、聞いた事があるわ。」
ここで村上弘明も声を出した。
「喜多野公会堂って確かにあるよな。この時期だと何かの公演をやっているはずだね。」
「拙者もそのことについて調べたでごんす。この手帳に書かれている日付、十月十一日にはハンガリーの生んだ偉大なチェロ奏者であるクリストフ・ルカッチが演奏に来るでごんす。つまり、下谷洋子がその日に喜多野公会堂で何か行動を起こすということでごんす。」
「下谷洋子はどんな行動を起こすのかしら。」
「とにかく、その日に喜多野公会堂に行けば下谷洋子の姿が見られるというわけね。でも下谷洋子はそこで何をするつもりなのかしら。」
二人は音楽家クリストロフ・ルカッチについてはほとんど個人的な事は知らなかったが下谷洋子とクリストロフ・ルカッチを結びつける接点はあった。二人はそのことを知らないだけだった。そして江尻伸吾も彼らを結びつけるものが何であるかを知らなかった。この三人の持っているクリストロフ・ルカッチに関する知識と言えばハンガリーで生まれてハンガリー動乱のときにアメリカに渡って日本のチェロ奏者で有名な荻野洋子の先生だったということぐらいだろうか。
「クリストロフ・ルカッチって荻野洋子の先生だった人物だろう。」
村上弘明は荻野洋子のことは知っていたのでその先生であるということしか知らない。荻野洋子がテレビのインタビュー番組で答えていたのを聞いたことがあるのだ。しかし江尻伸吾に至っては荻野洋子さえも知らなかった。
「荻野洋子って誰でごんすか。」
「江尻さんはテレビを見ないんですか。二十の鍵というクイズ番組を見たことがないの。あの番組に時々回答者として出ているわよ。」
二十の鍵というのはそこそこに視聴率を取っている全国ネットで放映されているクイズ番組でお上品さを売り物にしている。毒にも苦にもならない番組で当然出演者もお上品な人物しか出て来なかった。江尻伸吾の見る番組はと言えば料理番組、十分クッキングとか五百円以内に出来る豪華料理とか、ほかほかの料理が画面いっぱいに映し出される番組か、幼児向けのお母さんと遊ぼうというような番組しか見たことがなかつたのでそんな音楽家がいることを露も知らなかった。
「二十の鍵と言えば。」
そう言って村上弘明がポケットの中をさぐった。村上弘明が出したのは自分の札入れだった。札入れの中にはチャックのついている内袋がついていてチャツクを開けると中から鍵を取りだした。
「鍵と聞いて思い出しましたよ。」
村上弘明はその鍵を指先でつまんで江尻伸吾の目の前に出した。鍵が大きく拡大されてその背後に江尻伸吾の三日月のような顔がぼんやりと見える。その鍵はそれが鍵だということははっきりとわかるのだがどこにでもある鍵のようだがそれでいて見たことがないような気もする。
「その鍵がどうかしたのでごんすか。」
村上弘明が江尻伸吾の目の前のテーブルの上に置いたので江尻伸吾はその鍵をしげしげと見つめた。江尻伸吾もその鍵が少し変わっていると感じたのかも知れない。ステンレス製で棒のところが直線でドリルで何カ所も凹みが掘ってある。
「この鍵がどうしたのでごんすか。」
江尻伸吾はまた顎をさすった。名探偵が帽子のつばをいじったり、指を鳴らしたりすれば何か名案が浮かんだという証拠だが江尻伸吾にはそういうことはなかった。それはただのくせで江尻伸吾の脳細胞のシナブスの中で特別な伝達物質が移動したというわけではなかった。
「この鍵はK病院の中にいる大沼という患者から貰ったものなんですよ。」
「大沼。」
「本人は自分が正常であの病院の事務長をしていると主張しているんですが、最初はすっかり僕らもそうだと思っていたんですが、全くの食わせ物で正真正銘の妄想に取り付かれた精神異常者ですよ。でも不思議に病院の中を自由に出入りしていてこっそり盗んだ鍵のコピーなんかも持っているようなんです。本人の正常な意識ではなく異常なところに事実は事実として刻み込まれているのではないかと僕は睨んでいるんです。異常なゆがんだ部分に刻み込まれているから彼の口から出て来る言葉はおかしかたりするかも知れませんが、やはり事実を言っているかも知れないんです。要はこっちがそれをどう解釈するかということだと思うんです。だから彼が自分のことを事務長だと主張していることも何か意味があるかも知れませんし、ほかにも何か知っていて言わないことがあるかも知れないんです。何よりも彼はあの病院の中を自由に歩き回っているんですからきっと無意識の中にしまい込まれたかも知れない記憶の中にも何か重要なことがあるかも知れないと思っているんです。それせで彼に話しを合わせて応対していたんですが、ある日彼から郵便でその鍵が送られて来たんです。その鍵がうちに届いてからすぐに彼から電話があって、この鍵がK病院に関した鍵で重要な意味を持っていると思わせぶりな電話がかかって来たんです。その上さらに、大沼氏は自分はもっと重要なことを知っているというようなことを言っていました。それから電話の向こうで病院の職員たちの声が聞こえてきて彼を向こうでとり押さえているような様子でした。病院の職員たちが電話を切ったと思うんです。何故なら電話の向こうからまた沼田さん関係のないところに電話をかけるのはやめて下さいという声が聞こえて来ましたから。江尻さんはどう思いますか。」
再び村上弘明のその鍵についての来歴を聞いた江尻伸吾はその鍵をつまみ上げると眺め透かししながらその鍵を見た。
「鍵というものには、だいたいどこのメーカーが作ったのかメーカー名がわかるようになっているものでごじゃるが、この鍵にはメーカーがわかる文字や商標がついていないでごじゃる。もちろん個々の鍵ではなくて切る前の鍵でごじゃるが。」
江尻伸吾はその鍵を裏表上下逆にしてまた見てみた。
「よろしい、大阪府警には防犯課があり、鍵に詳しい専門家がいるでごんす。防犯課に回してどこで作られている鍵か調べてみるででごんす。」
江尻伸吾はいつも持ち歩いているビニール袋を取り出すとその中に鍵を落とした。
「じゃあ、拙者はこれで失礼するでごんす。ハンバーグはかたじけなかったでごんす。ごちそうさまでごんした。」
江尻伸吾はナプキンで口をふきながら腰を浮かせて帰ろうとした。
「江尻さん、初めて大阪府警の中で江尻さんにお会いしたとき電話盗聴装置の神山本次郎を見せてもらいましたよね。」
「ノン、ノン、あれは盗聴装置ではござらん。正確には非常回線犯罪関連語検索装置と言ってもらいたいでがんす。」
「じゃあ、それで昭光寺というお寺で夜中に古寺がすっかりと壊れたという事件がありましたよね。その後、あの事件に関して何か関連のあることは分かったのですか。」
帰ろうという江尻伸吾を引き留めて吉澤ひとみが聞いた。新聞部でその事件を吉澤ひとみはとり上げたぐらいだからその事件については関心があるのかも知れない。江尻伸吾は斜め宙を見つめて思い出そうとしているようだった。
「ええと、そうでござるな。あの事件に関しては新聞による報道があってから二件、大阪府警の方に問い合わせがあったでござる。一件は高校生だったでごんす。」
「きっと、それは私です。」
吉澤ひとみは昭光寺に深夜に起こった奇怪な事件に関して自分で取材をする前に確かに問い合わせたのだ。しかしあの事件に関して自分以外の人間で興味を持っている人間がいるとは知らなかった。新聞には確か小さな見出しでしかその記事は取り扱われていなかったはずだからだ。
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