羅漢拳  第33回 | 芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能界のちょっとだけ、知っていることについて

芸能人の追いかけを、やったりして、芸能人のことをちょっとだけ知っています、ちょっとだけ熱烈なファンです。あまり、深刻な話はありません。

第33回
照光寺
吉澤ひとみが再び七月の下旬に原因のわからない出来事から古寺が一夜のうちにつぶれてしまったという事件のその後の経緯を調べて見ようと思い、その寺に行ったのはその五日後のことだった。もちろん江尻伸吾に聞いたその事件について新聞社に問い合わせて来た人間が二人いるという事を聞き、一人は自分であるからもう一人は誰であるかという疑問から生じていた。吉澤ひとみがあのつぶれた屋根や倒れた墓石がそのままの姿で残っているだろうという予想は外れていた。まわりを工事用の金網で覆われていて倒れた墓石は元のままに立てられている。倒れた墓石と台座の間はコンクリートでつながれているのでコンクリートのあとがまだ白い。この寺の敷地は古寺の建っていた部分とお墓のある部分から成り立っていたのだがお墓の部分はすっかりと修復されているから、そのまま元と同じ状態にするのだろう。ただしお寺の建っている方はすっかり瓦礫の山もとり払われて整地されているから違う用途に使われるのかも知れない。吉澤ひとみはこに転校してから少したって新聞部の部員としてはじめて取材に訪れた家に再び訪ねてみることにした。前に訪ねたことのあるその家に行くと玄関からは前と同じように子供を抱いた若い主婦が出て来た。
「二週間前に学校新聞を作るためにお話を伺いに来たのですが、覚えていますか。」
「二週間前に来た子やね。覚えておるわ。」
若い主婦は子供をあやしながら言った。二週間前なら覚えていない方がおかしいからだ。
「照光寺のことでまたお伺いしたんですが、お墓は元通りになっていますが、本堂の建っていた敷地の方はすっかりと整地されているんですね。」
「そうや、お墓の方はそのままやなんだけど、お寺の方は公園にするという話やで。」
随分と急な話だ。
「役所の方からそういう話が来たんですか。」
「わては詳しい話はわからん。」
子供が少しぐずったので若い主婦は子供をまたあやした。
「あれからあの事件について何かわかった事がありますか。」
誰かがけがをしたという話ではなかったが吉澤ひとみはあえて事件という言葉を使った。
「何もわからへん。近所の人の話でも何で照光寺が一夜のうちになくなってしまったのかというのは誰にもわからへんのや。」
「和佳子、誰と話しているんや。」
奥の方から声が聞こえた。中から六十前後の女性が胡散臭いものを見るような目つきで出て来た。
「照光寺の事件があったやろう、あの事件を調べているのやて。S高のお嬢さんや。」
きっとこの二人は親子に違いないのだろうと吉澤ひとみは思った。二人の会話にはそんな気安さがあった。義理ではない実の親子という関係であろう。義理の親子であればもう少しよそよそしい感じがする。母親の方もしげしげと吉澤ひとみの方を見つめた。
「お母やん、あの事件のことで何か、近所で新しいことがわかったというような事はないやろう。」
「あれからあの事件のことを聞きに来た人がいたやないか。あんた覚えていないのか。」
「誰や。」
吉澤ひとみは耳をそばだてた。江尻伸吾の情報によれば新聞社にあの事件のことを二人の人間が問い合わせて来たと言う。一人は自分だからここに訪ねて来た人物はその人物だという可能性も高い。
「どんな人ですか。」
吉澤ひとみは慨然的な意味でそう質問したのだが、答えはいとも簡単だった。
「次田源一郎さんだよ。私にはそう言っていなかったけどね。前に市民会館の歴史講演であの人の話を聞いたことがあるんだ。あの事件のあった夜のことをしきりに聞いて言ったんや。」
次田源一郎といのは市井の歴史研究家でその著作を吉澤ひとみは校長から借りて読んだ。義経伝説が事実であるという事、つまり鞍馬山で源義経が烏天狗という正体不明な集団に超人的な技を伝授されて戦のとき活躍したという説を述べている人物だ。その考えを述べたのが次田源一郎の著した牛若丸伝説考究という小冊子に述べられている。しかし一種の夢想家に過ぎないそんな人物が何故この古寺の怪事件を調べに来たのだろうか。ちょうどその頃、村上弘明は江尻伸吾からの電話を待っていた。三日前から吉澤ひとみは兄の村上弘明に新聞部の活動があるので帰宅時間が遅くなると宣言していた。事実二日続けて吉澤ひとみが栗の木団地の自宅に戻って来るのは夜の十一時を最初の日は回っていた。村上弘明はすっかりと吉澤ひとみを信じ切っていてS高での新聞部の活動がそのように忙しいのだろうと信じ切っていた。しかし、村上弘明が日芸テレビから早く帰って来たとき、いつものようにキッチンでテレビを見ながらビールをちびちびとあおっていると電話がかかってきた。電話をとるとS高の仲良し三人組の一人の松村邦洋が出て来た。彼から話しを聞くと新聞部では別に残る用事もないとの事だった。だから吉澤ひとみは四時にはS高の校門を出ているという事だった。すると吉澤ひとみはどこに行っているのだろうか。そしてたまたま吉澤ひとみの予定表がテレビ台の下に置いてあり、それを見ると意外な人物のところに行く記録が残されている。村上弘明は全く予想もしない人物の名前だった。吉澤ひとみは学校が終わってから井川実の家というかアトリエに行っていたのだ。村上弘明はK病院の事を調べるに当たって栗田光陽という医師がそこに勤めていたという情報をS高校の三人組から貰ってそのアトリエに行ったのはつい最近の事だった。K病院にかって勤めていたという栗田光陽という若い医師が井川実という前衛画家と大阪港にある武庫川の倉庫を改築してアトリエのようにして住んでいるという情報をこの三人組から聞き、日芸新聞の業務用の四輪駆動車を運転して彼らのアトリエについた。栗田光陽の方は髪を七三に分けてきちんとした勤め人という感じだったが井川実の方は明らかに前衛芸術家という感じがした。栗田光陽の方からはK病院に関しては特別な情報を得ることはできなかったが井川実がK病院を建てるに当たってその設計をしたという今泉寛司の事を知っていて彼がK病院を設計したという事がわかったので今泉寛司の方へも村上弘明は取材に行ったのだった。その井川実のアトリエへ何故吉澤ひとみは行ったのだろうか。井川実と栗田光陽がまだ村上弘明に話していない何かを持っていてそれを感じたので吉澤ひとみは自分一人で彼らから何かを聞き出すために彼らの住んでいるアトリエを訪れているのだろうか。村上弘明にはわからなかった。しかし、最初に彼ら二人を取材に行ったときに受けた彼らの率直な印象と違って彼らはもっと何か秘密を握っているのかも知れない。これは江尻伸吾と彼の発明した犯罪捜査装置の手助けを得るしかない。そこで村上弘明は江尻伸吾に協力を、栗田光陽と井川実の事を調べてもらうように依頼したのだ。日芸テレビの中で彼からの電話を待っていたが彼からの電話はなかった。日芸テレビの玄関を出て外に停めてある自分の愛車に乗り込んだときにポケットの中に入れてある携帯がなり始めた。
「もしもし、吉澤ですが。」
「吉澤氏でござるか。江尻でござる。井川実と栗田光陽に関していささか調べたでごじゃる。」
「何か、新しいことが分かったのですか。」
村上弘明の声は思いのほかうわずっていた。
「今、どこにいるのでごじゃるかな。」
「日芸テレビの玄関の前で自分の車の運転席に座っています。」
「わかったでごじゃる。中之島公園のそばで待っているでごんす。そこで会うでごんす。ワゴン車に乗って待っているでごんすから車でなく電車で来てもらいたいでごんす。中之島公園に着いたらまた電話をくれるでごんす。そうしたら、拙者が村上弘明殿を迎えに行くでごんす。詳しいことはそのとき話すでごんす。」
村上弘明は早速電車に乗り込んだ。天満に着いたとき村上弘明が電話をかけると江尻伸吾は駅の出入り口のところで待っていると行った。そのとおり、村上弘明が天満の駅から出て行くとワゴン車が駅の出口のところで待っていた。後部の荷台のところにはあまり窓が開いていない。運転席には三日月のような顔をした江尻伸吾がこっちを向いている。促されて村上弘明はワゴン車の助手席に乗り込んだ。助手席に乗り込んで分かったのだが運転席にはいろいろな計器類が積み込まれている。この分だとたぶん荷台の方には江尻伸吾が開発したいろいろな犯罪捜査装置が積み込まれているのだろう。
「詳しいことは後で話すという話でしたよね。」
「そうでござる。これから栗田光陽と井川実の住んでいるアトリエのそばまで行くでござる。電波の届く範囲まで。」
「電場の届く範囲。」
村上弘明は再び聞き返した。
「あのアトリエの中に昼間、二人に知られないようにカメラを仕込んでおいたでがんす。」
「カメラ。」
再び村上弘明は聞き返した。
「絶対二人には知られないでがんす。」
「栗田光陽と井川実の二人に不審な点があると。」
「栗田光陽の方はK病院をやめてから実際には次の病院にはどこにも勤めていないでがんす。しかし、あの大きなアトリエを二人で借りていて明らかにおかしいでがんす。井川実の方の作品の収入があるとも思えないでがんす。その金の出所がどこか謎でがんす。」
「あの二人が一体何をしたと言うんでですか。」
「村上弘明氏から預かった鍵があったでごんすが、あのアトリエに忍び込んだとき同じような鍵が置いてあるのを見たでごんす。」
K病院にあったと同じような鍵をこの若い医者と前衛芸術家が持っているという事はどういう事だろうか。その場所に自分の妹の吉澤ひとみは学校が終わってから通っているらしい。これは由々しき事態だ。
「井川実に関してはもっと悪い噂があるでごんす。自分の作っている芸術作品のモデルを女性に頼んで何度かそれを頼んでいるうちに麻薬を飲ませて理性を喪失させたのちにいかがわしい行為に走っているという噂があるでごんす。しかし金銭的に報酬を与えているのでいかがわしい行為をされた女性もその事を訴えないので犯罪として立件されないのでごんす。」

「ええ。」
村上弘明はうろたえた。そんな場所に自分の妹は犯罪捜査のためにか通っているのだ。二人を乗せたワゴン車は倉庫街に来ていた。
「ここでよいでごんす。」
江尻伸吾は車を止めた。
「後ろの荷台に行くでごんす。」
二人は運転席から降りて車の荷台の方へ移った。村上弘明が想像していたとおり荷台の側面には江尻伸吾が発明したらしい犯罪捜査装置が積まれていた。その中に十七インチくらいのテレビが三台積まれている。
「これは。」
「これでアトリエの中を見るでごんす。」
アトリエはこのワゴン車から十メートルぐらい離れていた。井川実がモデルを雇っていかがわしい行為を行っているというのは本当だろうか。
「このスイッチを入れるでごんす。」
江尻伸吾が機械のスイッチを入れるとテレビに映像が表れた。その映像を見て村上弘明は自分の目を疑った。この前にあのアトリエを訪問したときはその部屋の中はつつましやかな芸術家らしい雰囲気があったが今は部屋の中は極彩色に七色で塗られて怪しい光を放つ照明が部屋の中を照らしている。部屋の中全体がゆがんでうごめいているようだった。
「おっ、忘れていたでごんす。」
江尻伸吾は機械のスイッチを入れた。するとスピーカーから音声が流れ出した。七色のペンキが塗られている部屋の中の間取りはここに最初に訪れたときと同じだったから土間の方が井川実の仕事部屋になっているようだつた。仕事部屋の方には座り心地のよさそうなソファーが置かれていてその真向かいにムンクの叫びのような大きな粘土の固まりが置かれている。仕事場では井川実はいらいらしながらたばこをふかしていた。それから生活空間の方に戻るとコップとウィスキーの瓶を取りだして酒をついでいる。きっと誰かが来るのを待っていらいらしているのだろう。ワゴン車の中のスピーカーからは彼の流している音楽がやかましいほど聞こえていた。そこで村上弘明はテレビの片隅に表示されている時刻を見た。時刻は四時五分、吉澤ひとみの学校が午後三時半に終わったとしてここにやって来るとすればちょうど良い時刻だ。吉澤ひとみがこのアトリエを訪れたらどうしょう、村上弘明は心の中で葛藤が生じた。吉澤ひとみの予定表にこのアトリエを訪れるという予定が書き込まれていたからだ。相変わらず井川実はいらいらとしている。きっとモデルを座らせるための椅子に座って水割りをあおっていた。
「いらいらしていますね。」
「きっとモデルが来ないのでいらいらしているでごんす。」
「モデルにいかがわしい行為をしているというのは本当なのでしょうか。」
「拙者の調べたところではかなり確かでごんす。」
井川は生活空間の方へ行って音楽を再びきり変えた。またもや訳の分からない多くの生物がのたくっているような不思議な音楽が大音量で聞こえて来た。井川はソファーに腰掛けて上半身をさかんにひねっている。音楽に合わせているのだろう。つましく芸術を追究しているという貧乏な芸術家という姿はそこにはなかった。音楽の中に微かではあるが呼び鈴を鳴らす音が混じっている。村上弘明は緊張した。そもそもこのアトリエを再調査しようと思った原因が吉澤ひとみの予定表にこのアトリエを訪れるという事が書かれているからであった。開けられたドアからひとみが出て来たらどうしようか。村上弘明はワゴンの中のテレビの画面に食い入った。ドアのチャイムが鳴ったことを井川実も気づいたのだろう。喜喜としてドアの方に近付いて行った。井川がドアを開けてモデルらしい女性を中に招き入れたとき村上弘明は安心した。入って来たのは吉澤ひとみよりも年上の女性だった。年齢的には二十代半ば位だろうか。肉感的な感じのする女だ。かと言って何も考えていないという感じではなく知性的な感じもする。江尻伸吾がわからないように備え付けた隠しカメラの位置が天井に近い位置にあるからだろうか。斜め上からその位置を写しているので顔を正面から撮られた映像ではない。井川実は以前に村上弘明が彼のアトリエを情報収集に訪れたときは洗いざらしたカーキ色の汚れても困らないような作業服を着ていたが今は上下とも七色の虹のような服の襟がひらひらの服を着ている。それがまるで井川実の欲情を表しているようだった。井川実は片手にウィスキーのコップを持ちながらその女性、女性モデルを自分の部屋の中に招き入れた。最初にそこを訪れたときにも感じていた事だが井川実は生活に倦んでいる要素をのぞいてもかなりいい男の部類に入るかも知れないという印象があった。髪を金髪に染め直したらちょっと盛りを過ぎた外国のロックミュージシャンという印象を見る人によっては与えられるかも知れない。
「江尻さん、声は聞こえないんですか。」
テレビのブラウン管をのぞき込んでいる村上弘明が音声のない画面に物足りなさを感じて江尻伸吾に言った。女性が部屋に入って来てからなおさら村上弘明はそのアトリエの中で何がおこなわれているのか、興味を引かれていた。
「村上弘明殿、これを装着するでがんす。」
江尻伸吾はそう言って二つのヘッドフォンを取り出すと一つは自分の頭に装着してもう片方は村上弘明の方に差し出した。

「これが隠しマイクの音量調節用のつまみでがんす。その横にあるのがマイクの集音方向を調節するつまみでがんす。これを調整することによりどの方向から音声を拾えるか選ぶ事ができるでがんす。」
江尻伸吾の得意気な説明も村上弘明の耳には入っていなかった。この女性を村上弘明はどこかで見たことがあるような気がするのだがどうしても思い出せない。年齢は二十五前後、自分の勤めているテレビ局の中で思いつく顔をいろいろと思い浮かべてみたが名前は出てこなかった。江尻伸吾がボリュームを上げたのだろう。空調の音に混じって中の会話も聞こえて来る。
「こっちに来て座って。」
井川実がそう言って大きなソファーの方に座るようにうながした。
「はい。」
その女は彼女の身体だと一人半ぐらい座れるような大きなソファーに身を沈めた。
「もうちょっと彼女の顔が大きく見えるように出来ませんか。」
村上弘明がそう言う前に江尻伸吾は隠しカメラの方向や画角を変えてその女性の顔を大きく拡大した。やはり村上弘明はその女性をどこかで見たことがあるような気がするのだが想い出すことができない。井川実はダイヤカットされたグラスにウィスキーをついでその女性のところに持って来た。ソファーの向かい側にはムンクの叫びのような粘土細工の固まりが置かれている。これをいじくって井川実が何か像を作るのかも知れない。江尻伸吾が盗聴マイクの指向性とボリュームを上げているのでアトリエの中の音声がよく入る。ブーンと虫の羽音のような音がするのは空調の音だった。マイクの位置が高いのでそういう音も取り込んでしまうのだろう。ソファーの斜め横に小さな椅子を持って来て井川実も座った。井川実は片手にはウィスキーのグラス、片手にはたばこを指の間に挟んでいる。
「今いくつだっけ。」
「二十五です。」
「そう。」
井川実がにやけて聞くとそう聞かれた女性は子供じゃあるまいし、にやけて私の年なんて聞かないでよ、という顔をした。
「奥野美加さんからの紹介だよね。君も美加さんと同じ銀行に勤めているの。」
「ええ、H銀行です。」
「名前は中井優さんだったよね。」
「そうです。」
「仮名じゃなくて。」
井川実はにやりといやらしい笑いを浮かべた。
「銀行では何をやっているの。」
「受付です。」
中井優と答えた女性の顔には少しこわばりがあった。
「どんな事をやるか、聞いてきた。」
「ブロンズの像を作るモデルだつて聞いていますけど。」
「僕のやり方は少し変わっているけど、あまり疑問を感じないようにしてね。奥野美加からどこまで聞いた。」
モデルを金で雇うのはいいが何故、井川実はこんな七色の虹のようなサイケデリックな格好をしているのだろうか。
「こんな格好をしているから少し驚いた。」
「いいえ、銀行の受付にいてもいろいろな人が来ますから。この前には受付の椅子に座ったと同時に大きな声で歌を歌い始めた人がいるんですよ。」
「へぇ、そんな変わった人間もいるんだ。」
そう言って井川実は笑ったが目はいやらしかった。
「モデル料って随分と高いんですね。相場って私、知らないですけど。井川さんはいいところの御曹司なんですか。こんなにいいところに住んで、モデル料もたくさん払ってくれるから。」
「そうじゃないさ。こう見えても、パトロンが居てね。作品料をたくさん払ってくれるのさ。それに同居人が医者でね。彼に半分家賃を払ってもらっているのさ。」
そう言って井川実はこの魅力的な訪問者を下から上からなめ回すように見つめた。
「モデル料が目当てでここに来たのかい。」
井川はグラスの中のウィスキーまた半分飲み干した。
「そんな事はないわ。私、モデルというのに何らかしらロマンを感じているの。昔、見た漫画でモデルになった女の子が画家にモデルを頼まれるの。しかしその画家は実は魔術を研究している魔法博士で美しいものを永久に生かす魔法を古書から見つけて来てその画布の上に定着させる事によって彼女は永遠の命を持つのよ。でも彼女の姿は魔法博士以外には見えもしなければ触れもしないの。その絵を見に来た美しい若者が彼女に恋をしてしまうんだけど。私がいつも読んでいた漫画雑誌に載っていた漫画なんだけど話が二回に分かれていてその次の方を読まなかったからそれで終わっているんだけど。」
村上弘明もその漫画も漫画家の事も知っている。デビュー作は江戸時代の飛脚をリアルに描いた劇画タッチの漫画だったと覚えている。その次の号も村上弘明は読んだことがある。井川実もそれを読んだことがあるらしい。
「境のりのすけの漫画だろ。僕もその本を読んだことがあるよ。境のりのすけって江戸飛脚つばめの三次を書いていたって知っている。その後どうなったか知りたい。」
井川実はまたいやらしい目をして中井優の事を見つめた。
「その若者は古道具屋をやっているんだけどその姉がやはり魔術に通じていたんだ。魔術を使う画家は今度はその姉に目をつけた。彼女も魔術を使えるという事も知らずにでだ。同じように姉の事を自分のアトリエにつれて来た。そこで姉の方は満月の九月九日に生まれた羊の血で作った油を絵の上に拭きかけると魔法博士の魔術が解けて娘は現実の世界に戻って来たんだ。」
そこで井川実は飲みかけのウィスキーをあけるとのどがやけついたのか、軽くのどを鳴らしてにやにやとした。
「僕が魔法博士だったらどうする。」
中井優がモデルという言葉にロマンを感じていると言ったので彼は調子にのって彼女をその気にさせようとしているのかも知れなかった。
「ありがとう。あの漫画を読んだのは子供の頃だったけどその後どうなったのか、気がかりだったの。結論が分かって良かったわ。」
「僕に感謝している。」
「まあね。」
酒の酔いが二人に回ったのか、中井優はかなりなれなれしくなっていた。
「何だ、あいつ、ロマンという言葉の意味を知っているのか。あんなに女を酔わせて何をするつもりだ。ロマンというのはロマンス語で書かれた物語という意味だぞ。」
江尻伸吾も同意した。
「同感でごんす。」
「さっきの話の続きだけどこんな大きな倉庫を個人で借りるなんて井川さんて金持ちなのね。」
「金持ちは好きだろ。

「もちろん。」
そう言って中井優はまた笑った。カメラに映った彼女は相当酔っぱらっているようだった。
「この倉庫の内装は随分と素敵ね。自分でやったの。」
「何で、そんな事を聞くんだい。」
「だって芸術家でしょう。自分の好きなように内装を組み合わせるのかと思ったのよ。」
「そんな事より僕の芸術に協力してくれるかい。」
「協力って。」
井川実はまたいやらしく笑った。そしてアトリエの作業場でない、生活空間の方を指さした。作業場と生活空間の間はカーテンで閉められているのだがいつの間にかカーテンは開けられていて大きなベッドが見える。そして中井優は半ば酔っぱらっていて目の前の画像が夢の中のように見えるのだが、ベッドの横に誰かが立っている。彼女自身はそれが誰であるかは分からなかった。
「江尻さん、ちょっとカメラを移動して中井優という女の子が何かを見ているよ。」
「分かっているでがんす。今、カメラを移動しているところでがんす。」
江尻伸吾はカメラの遠隔操作スティクを盛んに動かした。カメラの視野は作業場から生活空間の方に移った。大きなベッドが見える。そしてその横には。
「あっ、あいつ。」
江尻伸吾はその人物を見てもわからなかったが村上弘明はそれが誰であるか、すぐに分かった。
「栗田光陽じゃないか。」
村上弘明は計器類に囲まれたワゴン車の荷台の中で叫び声をあげた。大きなベッドの横にはかつてK病院に勤めていたという栗田光陽が立っている。ネクタイを絞めない白いワイシャツのままでワイシャツの上の方のボタンははずれていた。心持ち肩のあたりで息をしているような感じだ。
「薬の効き方もいいじゃない。」
栗田光陽は女のような言葉で井川実に話かけた。中井優は半分うつろな目をして栗田光陽の方を見た。
「すっかり眠らせないでそのくせ身体の自由は利かないようにしておく、この頃合いがむずかしいのよ。おほほほ。局部麻酔なんかを打っちゃえば簡単なんだけど飲み薬でそんな便利な薬が発明されないかしら。意識はある程度はっきりしていて身体の自由が利かないなんて薬がね。」
「余計な事はいいけど何分薬の効果が持つんだよ。」
「せいぜい十五分というところね。」
「たった十五分かよ。」
「それ以上の時間、薬が利くような分量をお酒に混ぜたりしたら全く意識を失っちゃうわよ。それどころか死んじゃったりしちゃうかも知れないわ。おほほほほ。」
「そんな御託はいいから早くベッドの方へ運ぼうぜ。」
栗田光陽の立っている横には大きなベッドが置いてある。そしてその横には三脚に立てられたビデオカメラが用意されていた。ビデオカメラの横にはビデオカメラ用のライトもセットされていた。中井優がこのアトリエに入って来たときにはカーテンで仕切られてそのビデオカメラとビデオ用のライトは見えなかったがカーテンの向こうにはベッドの方を向いてその機材がメタリックシルバーの光沢を光らせながら対象を待っていたのだ。カメラの横にはMIYAKOのロゴの彫刻が貼られている。宮古光学、日本では一番信頼性のある光学機械メーカーとして知られている。黒い三脚の上に備え付けられているそのカメラは放送局で使うものほどの機材ではないにしても素人が遊びで使うには高級な機能と高い画素数、充分な色再現性を持っていた。カメラとライトの電源コードは木製の床の上に延びていて暗がりで見えなくなっている部屋の片隅にある電源コンセントにつながっている。ベットは金色の太いパイプを使った装飾性の高いものでその前後に金色のしゃれた柵がついていた。ベッドには白い洗いざらしの木綿のシーツと上掛け、大人の頭の三倍くらいの大きさのこれもやはり木綿の枕が置かれている。上掛けはめくられて、そのシーツの上に置かれる生身の女の身体を待っていた。ビデオカメラの横に栗田光陽が立っているという事は彼が撮影をするという事なのか。ソファーの上で栗田光陽が調合した薬を混入された酒を飲まされた中井優はだるそうに半ば目を閉じて背もたれに身体をあずけている。彼らが言っているように身体の自由は利かないが意識はあるという状態なのかも知れない。井川実はソファーの中で動かなくなっている中井優の頬を軽くつついて見た。中井優はあきらかに目だけで敵意の表情をあらわした。しかし身体の自由は利かないのでどうする事もできなかった。
「ほらほら、怒っているよ。」
「おほほほ、僕の言ったとおりでしょう。」
栗田光陽はベットのそばに立っていやらしく笑った。
「早くベットのそばにつれて来なさいよ。準備は整っているんだから。おほほほ。」
テレビのブラウン管にはあのアトリエの中の井川実と栗田光陽の犯罪行為が音声入りで鮮明に映し出されているので村上弘明は彼らの行為を止めようと今にも車の中から飛び出して行きそうな勢いだった。それをあわてて江尻伸吾が止めた。
「出て行ったらだめでがんす。ミーたちの正体が彼らにばれたらまずいでがんす。彼らはいろいろと重要な証拠を握っているようでござる。彼らはまだ泳がせておくでござる。」
江尻伸吾はその三日月のような顔を村上弘明の方ににゅうと伸ばして制した。江尻伸吾の顔は実際よりも二倍くらい拡大されて村上弘明の前に飛び出しているようだった。
「江尻さん、そんな事を言ったって放っておいたら大変な事になってしまいますよ。」
村上弘明はテレビのブラウン管の方を指さして憤慨した。すると江尻伸吾はしたり顔で再び尖ったあごをなでた。江尻伸吾が得意なときにするポーズである。
「吉澤殿、心配する必要はござらん。あのアトリエに監視カメラとマイクを取り付けたときから、取り外すときの事も想定しているでござるよ。」
江尻伸吾はここでまた得意気にあごをさすった。
「あそこに取り付けてあるのは単なるマイクではないでござるよ。」
「と言うと。」
「マイクは音を拾うだけでござるが電気を逆につなげば音を出す事も出来ることをご存知かな。ここをちょっとボタンを押せば。」
江尻伸吾はワゴン車の荷台に積まれている機械類のたくさんのボタンの一つからDANGERと書かれているボタンを押した。するとどういう事だろうか、テレビのブラウン管に映っている栗木光陽と井川実の二人はふらりと立ち上がると身体をふらふらと揺らして眠るように倒れてしまった。
「今でござる。あのアトリエの前に車をつけるでござる。」
江尻伸吾はワゴン車の荷台から運転席の方に移ったので村上弘明もあわてて運転席の方に移った。と同時に江尻伸吾はワゴン車を発進させた。と言ってもそのアトリエのある倉庫は車を停車させている場所から数百メートル離れているのに過ぎないのだが。アトリエのある倉庫の前で何食わぬ顔でワゴン車を止めた江尻伸吾は荷台の方のテレビを見た。そこにはまだアトリエの内部が映っていて井川実も栗田光陽もそして彼らの毒牙にかかろうとしていた中井優も寝ていた。
「首尾は上々でござる。うししし。」
いつにもなく江尻伸吾は上機嫌であった。
「マイクは音を拾うだけではなく音を出すことも出来ると言ったでござろうが、鶏のある部分を人間がマッサージすると鶏は寝てしまうでござるだろう。人間とても同じ事。ある周波数の音を特別なパターンで人間に聞かせると寝てしまうのでござる。備え付けたカメラが見つかりそうになったとき隠しマイクからその音波を流すでござる。そうすれば対象者は寝てしまいマイクを取り外しに行くことができるでござる。」
江尻伸吾は車の運転席から降りながらそう言った。
「おっ、忘れたでござる。」
江尻伸吾はそう言うと車のダッシュボードのあたりから何かTの字の形のしたものを取りだしてポケットの中に入れた。
「用心のためでござる。」
以前来たことのある彼らの住んでいる倉庫は全く変わっていなかった。鉄の鋼板の上にコールタールのような黒いペンキが建物全体に塗られていて正面には大きな引き戸がついているのだがそこは内部から太い鎖でつながれていて普段は開く事ができないようになっている。その代わり小さな潜り戸が引き戸に付いていてそこから出入り出来るようになっているのだった。中井優はそこからこのアトリエに入って来たのだった。
「この扉から入るのでござるな。」